
CASE-063 / 未解決
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投稿者はキリシマと名乗る30代の会社員だ。文面は整然としていて、句読点の位置まで均一だった。
「記録の外部保存」。このブログへの依頼としては、初めての種類の言葉だった。怪談でも相談でもなく、バックアップ。
添付ファイルが一つあった。ファイル名は「kirishima_log_v7.xlsx」。v7、という番号が少し気になったが、まず中を確認した。
添付されてきたのは、スプレッドシートのスクリーンショット数枚だった。
列は左から順に、日付・断食時間・体重・睡眠時間・気分スコア(5段階)・備考・何が消えたか。几帳面に毎日埋められている。半年分、一日も抜けていない。
気分スコアの欄を縦に追うと、半年前は2か3が多かったのが、最近は4か5で安定している。備考欄には最初のうち「頭が痛い」「集中できない」といった不調の記録があるが、3ヶ月目以降はほとんど空白だ。
他の欄は健康管理の記録として標準的だが、最後の「何が消えたか」だけが毛色が違った。キリシマに説明を求めた。
「最初から欄はありました」。断食を始めると同時に、消えるものを記録する準備をしていたことになる。
早期の記録を確認した。スクリーンショットから読み取れる範囲で、「何が消えたか」欄の初期の記述を書き出す。
最後の一行は備考欄からの転記だが、文脈が少し違う。「出なかった」という事実が、「何が消えたか」の欄ではなく備考欄に書かれている。キリシマはこの時点で、切り離しを「記録すべき出来事」として捉えていた。
この時点では、特段の問題は感じなかった。
スクリーンショットの日付が新しくなるにつれて、「何が消えたか」の欄の記述が変わっていく。
読者のために、月ごとの記述を並べておく。
ここまでは、欲求や習慣、それから記憶が消えていく流れだった。読者にとっても、ある程度予想のつく方向だと思う。
問題は、4ヶ月目以降だった。
記述は同じ対象を追っている。母親。最初は顔という具体的な視覚情報が出てこない、というだけだった。次に、単語そのものへの感情反応がなくなる。最後に、存在していたという事実への接続が切れている。
順番が、奇妙だ。
普通、記憶が消えるとき、まず感情の薄れが起きて、次に像が消える。だが「何が消えたか」欄の記述は逆だった。像が先に消え、次に感情が消え、最後に存在の確からしさが消えている。
5ヶ月目に入ると、対象そのものが書かれなくなる。代名詞でもなく、空欄でもなく、「(対象不明)」という記述が現れる。キリシマは「誰について書こうとしたか」を記録しようとして、できなかった。
キリシマに、この変化について伝えた。
主語が、消えていた。
返信を読み直して気づいた。以前のメールでは「私は」「自分は」と書いていた箇所が、今回は省かれている。文意は通る。日本語として不自然ではない。だが、初回のメールと並べると、明らかに違う。
4ヶ月目に入ったあたりで、キリシマからのメールに体重の話が出なくなっていることに気づいた。
スプレッドシートの体重欄は、数字が入り続けている。しかし、キリシマ自身がその数字に言及しない。気分スコアや断食時間については毎回触れるのに、体重だけが会話から消えていた。
体重の推移について聞いた。
「記録はしているが見返さない」。これは奇妙な答えだ。キリシマは記録に対して几帳面な人間で、他の欄は毎日確認している。体重の欄だけが、記録されながら見られていない。
スクリーンショットで確認できる範囲で、体重の欄の数字を追った。半年で、継続的に減少していた。最初の数値が何であれ、減少の傾きは途中で止まっていない。
この点について、率直に伝えた。体重が継続的に減少していること、専門家に相談することを勧めた。
「本来の状態」。
ここで初めて、記録の外部保存という依頼の意味が変わって見えた。キリシマは最初から「自分が変化していくこと」を知っていた。だから記録を外に預けたかった。変化した後の自分が、変化前の記録を読めなくなることを、どこかで予期していたのかもしれない。
ファイル名の「v7」が、また頭をよぎった。このファイルには、6つの前のバージョンがある。
5ヶ月目に入ったころから、キリシマのメールの送信時刻が変わった。
それまでは夜8時から10時の間に届いていた。それが深夜2時、朝5時、昼12時と不規則になった。3通が同じ日に届くこともあった。
眠れているか確認した。
この返信にも、主語がなかった。
過去のメールを時系列で並べてみた。
「私」が「自分」になり、「自分」が消えた。三段階。文章としては成立するため、一通だけ読めば違和感はない。並べると、輪郭が薄くなっていくのが見える。
固有名詞も同じ傾向だった。以前は「職場の○○さんが」「学生のころ通っていた△△という店が」という具体的な言葉があった。今は「誰か」「どこか」「前に」という言葉に置き換わっている。
3ヶ月目のスクリーンショットに戻った。「何が消えたか」欄の記述の中に「実家に電話しようと思わなくなった」とある。1週目の備考欄には「妹から電話があった、出なかった」とあった。
順番が、逆だ。
電話を取らなくなった、次に、かけようと思わなくなった。切り離しには、段階があった。そしてその最初の段階は、記録を始めた初日に近い場所にある。
つまり、こうも読める。感情が消えたから連絡しなくなったのではなく、連絡しなくなった結果、感情が消えていった。
断食が原因なのではなく、「何かを切り離す行為そのもの」が、この進行を駆動している可能性がある。だとすれば、断食はきっかけに過ぎない。本体は別のところにある。
6ヶ月目。
「何が消えたか」の欄が、空白になっていた。
一日だけではない。直近の二週間、欄がすべて空白だ。他の欄——断食時間、睡眠時間、気分スコア——は変わらず埋められている。体重の欄も数字が入っている。「何が消えたか」だけが、白い。
空白の理由を聞いた。
この一文を読んで、しばらく画面から目が離せなかった。
「消えたものを、消えたと気づく部分」。キリシマはそれを正確に言語化できている。この時点では、まだ。
これが、自分に起きていることを言葉にできた最後の瞬間だったのかもしれない、と今は思う。
返信を送った。専門家への相談を、もう一度、今度は強めに勧めた。一人で記録を続けることとは別の選択肢があることを伝えた。
既読はついた。返信はなかった。
翌日、もう一通送った。返信はなかった。
三日後、スプレッドシートのスクリーンショットだけが届いた。
このスクリーンショットを開いて、画面を見つめた。
「何が消えたか」の欄は、今日も空白だった。
キリシマとの最後のやり取りから、現在も定期的に連絡を試みている。スクリーンショットは不定期に届く。記録は続いている。
整理できることを並べておく。
- 「何が消えたか」の欄は、当初「欲求・衝動」を記録していたが、のちに「像→感情→存在への違和感」という順序で対象を失っていった
- メールの主語が「私」→「自分」→省略へと段階的に消えている
- 記録を始めた最初の週から、切り離しはすでに始まっていた
- 「何が消えたか」の欄が空白なのは、気づく機能が失われたからか、あるいは別の理由か
- 記録が続いていることが、キリシマにとって何を意味しているか
- ファイル名「v7」の、v1からv6が何であったか
- キリシマは変化した後の自分が変化前の記録を読めなくなることを、最初から知っていたのではないか
- 断食が原因ではなく「切り離す行為そのもの」が進行条件だとすれば、対象は食事に限らない
- このブログへの投稿の前に、キリシマは別の誰かに同じ依頼をしていた可能性がある
- 断食の記録をつける中で、記憶や感情の変化を経験した方
- 「kirishima_log_v3」または同名の旧バージョンファイルを受け取ったことがある方
- キリシマというハンドルネームに心当たりのある方
- 「何が消えたか」という列を持つスプレッドシートを、自分以外の誰かから受け取った方
シートの最上段——列タイトルの行を見て、少し手が止まった。
日付・断食時間・体重・睡眠時間・気分スコア・備考・ 。
最後の列のタイトルが、入っていない。
過去のスクリーンショットでは確かに「何が消えたか」と書かれていた。同じファイルのはずだ。バージョン番号も「v7」のまま変わっていない。
ただ、列タイトルだけが空欄になっている。
データは、これまで通り入っている——いや、今は空白だが、入っていた跡は残っている。列自体はある。タイトルだけがない。
キリシマの手元にも、同じファイルがあるはずだ。
ただ、キリシマがそのファイルを開いたとき、そこに何が書いてあるか読めるかどうかを、私は知らない。












