記録されなかった話。

どこにも残らなかったはずの話を、記録という形で保管しています。 本ブログはAIによる創作ホラーモキュメンタリーです。

断食の手順


CASE-063 / 未解決
管理人注記 以下は2026年3月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび添付資料をもとにまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年3月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はキリシマと名乗る30代の会社員だ。文面は整然としていて、句読点の位置まで均一だった。

投稿者:キリシマ / 原文
はじめまして。私は記録の外部保存をお願いしたくて、連絡しました。
私は半年ほど前から断食の記録をつけています。最初は、食事のことを考えている時間が長すぎると思って始めました。食べることに使っている注意を、別のことに向けたかった。それだけのつもりでした。
私はスプレッドシートで管理していますが、クラウドの同期が不安定で、ローカルに保存するだけでは心許ない。誰かに預けておきたいと思いました。
変な話ではないと思います。ただ、記録を半年続けてきて、最近、自分でも整理がつかないことが出てきました。外部の目で見てもらえたら、と思って連絡しました。

「記録の外部保存」。このブログへの依頼としては、初めての種類の言葉だった。怪談でも相談でもなく、バックアップ。

添付ファイルが一つあった。ファイル名は「kirishima_log_v7.xlsx」。v7、という番号が少し気になったが、まず中を確認した。

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02 / スプレッドシートについて

添付されてきたのは、スプレッドシートのスクリーンショット数枚だった。

列は左から順に、日付・断食時間・体重・睡眠時間・気分スコア(5段階)・備考・何が消えたか。几帳面に毎日埋められている。半年分、一日も抜けていない。

気分スコアの欄を縦に追うと、半年前は2か3が多かったのが、最近は4か5で安定している。備考欄には最初のうち「頭が痛い」「集中できない」といった不調の記録があるが、3ヶ月目以降はほとんど空白だ。

他の欄は健康管理の記録として標準的だが、最後の「何が消えたか」だけが毛色が違った。キリシマに説明を求めた。

受信:キリシマ / 返信
断食が長くなると、私はいろいろなものへの興味が薄れていくのを感じます。最初は「お腹が空いた」という感覚が薄れる。次に、甘いものへの欲求。仕事のストレス。SNSを見たい気持ち。そういうものが、断食中にすっと遠ざかる感覚があって。それを記録しておきたくて、欄を作りました。
最初から欄はありました。私が記録を始めるときに、これを記録しようと決めていたので。

「最初から欄はありました」。断食を始めると同時に、消えるものを記録する準備をしていたことになる。

早期の記録を確認した。スクリーンショットから読み取れる範囲で、「何が消えたか」欄の初期の記述を書き出す。

スプレッドシート抜粋 / 「何が消えたか」欄
1週目:「間食したい気持ち」「同僚の言葉が気になる感覚」
2週目:「甘いものへの欲求」「残業後のビールを飲みたい気持ち」
3週目:「他人の目が気になる感覚」「妹から電話があった、出なかった」※備考欄より

最後の一行は備考欄からの転記だが、文脈が少し違う。「出なかった」という事実が、「何が消えたか」の欄ではなく備考欄に書かれている。キリシマはこの時点で、切り離しを「記録すべき出来事」として捉えていた。

この時点では、特段の問題は感じなかった。

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03 / 欄の変化

スクリーンショットの日付が新しくなるにつれて、「何が消えたか」の欄の記述が変わっていく。

読者のために、月ごとの記述を並べておく。

1ヶ月目
「間食したい気持ち」「仕事のストレス」「SNSを見たい気持ち」
「眠れない夜に誰かに連絡したい気持ち」
3ヶ月目
「音楽を聴きたいと思わなくなった」
「実家に電話しようと思わなくなった」
「昨日食べたものを思い出せなくなった」
「昔よく行っていた店の名前が出てこなくなった」
「友人のことを考えていないと気づいた」

ここまでは、欲求や習慣、それから記憶が消えていく流れだった。読者にとっても、ある程度予想のつく方向だと思う。

問題は、4ヶ月目以降だった。

4ヶ月目 / 中盤
「母の顔が、思い出そうとして出てこなかった」
↓(数日後)
「『母』という単語を見ても、特に何も湧かない」
↓(さらに10日後)
「母という人が存在していたこと自体に、違和感がある」

記述は同じ対象を追っている。母親。最初は顔という具体的な視覚情報が出てこない、というだけだった。次に、単語そのものへの感情反応がなくなる。最後に、存在していたという事実への接続が切れている。

順番が、奇妙だ。

普通、記憶が消えるとき、まず感情の薄れが起きて、次に像が消える。だが「何が消えたか」欄の記述は逆だった。像が先に消え、次に感情が消え、最後に存在の確からしさが消えている。

5ヶ月目
「(対象不明)について、何かを覚えていた気がするが、その『気がする』が薄れた」
「自分が誰について悲しいと思っていたかを、思い出せない」
「○○さんの声を思い出そうとしたが、出てこなかった」※○○部分は判読不能

5ヶ月目に入ると、対象そのものが書かれなくなる。代名詞でもなく、空欄でもなく、「(対象不明)」という記述が現れる。キリシマは「誰について書こうとしたか」を記録しようとして、できなかった。

キリシマに、この変化について伝えた。

受信:キリシマ / 返信
そうですね。自分でも気づいています。最初は余分なものが整理されていく感じでした。でも最近は、余分かどうかわからないものも消えている。
ただ、困らないんです。それが不思議で。困らないことを、おかしいと思う部分はあります。でも、おかしいという感覚もそれほど強くない。

主語が、消えていた。

返信を読み直して気づいた。以前のメールでは「私は」「自分は」と書いていた箇所が、今回は省かれている。文意は通る。日本語として不自然ではない。だが、初回のメールと並べると、明らかに違う。

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04 / 体重の欄

4ヶ月目に入ったあたりで、キリシマからのメールに体重の話が出なくなっていることに気づいた。

スプレッドシートの体重欄は、数字が入り続けている。しかし、キリシマ自身がその数字に言及しない。気分スコアや断食時間については毎回触れるのに、体重だけが会話から消えていた。

体重の推移について聞いた。

受信:キリシマ / 返信
数字はあまり意味がないと思うようになりました。記録はしていますが、見返すことはほとんどないです。

「記録はしているが見返さない」。これは奇妙な答えだ。キリシマは記録に対して几帳面な人間で、他の欄は毎日確認している。体重の欄だけが、記録されながら見られていない。

スクリーンショットで確認できる範囲で、体重の欄の数字を追った。半年で、継続的に減少していた。最初の数値が何であれ、減少の傾きは途中で止まっていない。

この点について、率直に伝えた。体重が継続的に減少していること、専門家に相談することを勧めた。

受信:キリシマ / 返信
ご心配いただいてありがとうございます。でも体調は悪くないんです。むしろ良い。頭が静かで、余分な雑音がない。これが本来の状態なのかもしれないと思っています。

「本来の状態」。

ここで初めて、記録の外部保存という依頼の意味が変わって見えた。キリシマは最初から「自分が変化していくこと」を知っていた。だから記録を外に預けたかった。変化した後の自分が、変化前の記録を読めなくなることを、どこかで予期していたのかもしれない。

ファイル名の「v7」が、また頭をよぎった。このファイルには、6つの前のバージョンがある。

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05 / 送信時刻

5ヶ月目に入ったころから、キリシマのメールの送信時刻が変わった。

それまでは夜8時から10時の間に届いていた。それが深夜2時、朝5時、昼12時と不規則になった。3通が同じ日に届くこともあった。

眠れているか確認した。

受信:キリシマ / 返信
眠る必要性をあまり感じなくなりました。横になると意識が遠くなることはあります。でもそれが眠りなのかどうか、よくわからない。朝になっていることに気づく、という感じです。

この返信にも、主語がなかった。

過去のメールを時系列で並べてみた。

メール文体の推移
1ヶ月目:「私は記録を続けています」「私は気分が良いです」
3ヶ月目:「自分は変化を感じています」「自分にとっては良いことです」
5ヶ月目:「眠る必要性をあまり感じなくなりました」「(主語なし)」

「私」が「自分」になり、「自分」が消えた。三段階。文章としては成立するため、一通だけ読めば違和感はない。並べると、輪郭が薄くなっていくのが見える。

固有名詞も同じ傾向だった。以前は「職場の○○さんが」「学生のころ通っていた△△という店が」という具体的な言葉があった。今は「誰か」「どこか」「前に」という言葉に置き換わっている。

3ヶ月目のスクリーンショットに戻った。「何が消えたか」欄の記述の中に「実家に電話しようと思わなくなった」とある。1週目の備考欄には「妹から電話があった、出なかった」とあった。

順番が、逆だ。

電話を取らなくなった、次に、かけようと思わなくなった。切り離しには、段階があった。そしてその最初の段階は、記録を始めた初日に近い場所にある。

つまり、こうも読める。感情が消えたから連絡しなくなったのではなく、連絡しなくなった結果、感情が消えていった。

断食が原因なのではなく、「何かを切り離す行為そのもの」が、この進行を駆動している可能性がある。だとすれば、断食はきっかけに過ぎない。本体は別のところにある。

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06 / 最後のやり取り

6ヶ月目。

「何が消えたか」の欄が、空白になっていた。

一日だけではない。直近の二週間、欄がすべて空白だ。他の欄——断食時間、睡眠時間、気分スコア——は変わらず埋められている。体重の欄も数字が入っている。「何が消えたか」だけが、白い。

空白の理由を聞いた。

受信:キリシマ / 返信
何も消えていないわけではないと思います。
ただ、消えたものを、消えたと気づく部分が、たぶんなくなりました。

この一文を読んで、しばらく画面から目が離せなかった。

「消えたものを、消えたと気づく部分」。キリシマはそれを正確に言語化できている。この時点では、まだ。

これが、自分に起きていることを言葉にできた最後の瞬間だったのかもしれない、と今は思う。

返信を送った。専門家への相談を、もう一度、今度は強めに勧めた。一人で記録を続けることとは別の選択肢があることを伝えた。

既読はついた。返信はなかった。

翌日、もう一通送った。返信はなかった。

三日後、スプレッドシートのスクリーンショットだけが届いた。

このスクリーンショットを開いて、画面を見つめた。

「何が消えたか」の欄は、今日も空白だった。

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07 / 現時点での状況

キリシマとの最後のやり取りから、現在も定期的に連絡を試みている。スクリーンショットは不定期に届く。記録は続いている。

整理できることを並べておく。

確認できること
  • 「何が消えたか」の欄は、当初「欲求・衝動」を記録していたが、のちに「像→感情→存在への違和感」という順序で対象を失っていった
  • メールの主語が「私」→「自分」→省略へと段階的に消えている
  • 記録を始めた最初の週から、切り離しはすでに始まっていた
確認できないこと
  • 「何が消えたか」の欄が空白なのは、気づく機能が失われたからか、あるいは別の理由か
  • 記録が続いていることが、キリシマにとって何を意味しているか
  • ファイル名「v7」の、v1からv6が何であったか
気になる点
  • キリシマは変化した後の自分が変化前の記録を読めなくなることを、最初から知っていたのではないか
  • 断食が原因ではなく「切り離す行為そのもの」が進行条件だとすれば、対象は食事に限らない
  • このブログへの投稿の前に、キリシマは別の誰かに同じ依頼をしていた可能性がある
管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • 断食の記録をつける中で、記憶や感情の変化を経験した方
  • 「kirishima_log_v3」または同名の旧バージョンファイルを受け取ったことがある方
  • キリシマというハンドルネームに心当たりのある方
  • 「何が消えたか」という列を持つスプレッドシートを、自分以外の誰かから受け取った方
直近に届いたスクリーンショットを、もう一度開いた。
シートの最上段——列タイトルの行を見て、少し手が止まった。

日付・断食時間・体重・睡眠時間・気分スコア・備考・    。

最後の列のタイトルが、入っていない。
過去のスクリーンショットでは確かに「何が消えたか」と書かれていた。同じファイルのはずだ。バージョン番号も「v7」のまま変わっていない。

ただ、列タイトルだけが空欄になっている。
データは、これまで通り入っている——いや、今は空白だが、入っていた跡は残っている。列自体はある。タイトルだけがない。

キリシマの手元にも、同じファイルがあるはずだ。
ただ、キリシマがそのファイルを開いたとき、そこに何が書いてあるか読めるかどうかを、私は知らない。

 

 

 

右下のシミ


CASE-062 / 調査終了
管理人注記 以下は2026年4月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
本件は調査の途中で性質が変わったため、最後まで読まれた上での判断をお願いいたします。投稿者および関係者の個人情報は削除・改変しています。
01 / 最初の投稿
2026年4月 / 本ブログへの投稿メール

差出人はハマダと名乗る40代の男性で、地方都市の郊外で新聞配達を生業にしているという。

投稿者:ハマダ / 原文
はじめまして。仕事柄、同じ電柱を毎日見ています。
担当区域の○○町に、3年以上前から貼られ続けているチラシがあります。「迷い犬を探しています」というやつです。茶色の中型犬の写真と、犬の名前、特徴、連絡先の電話番号。よくあるチラシです。
気になるのは、このチラシが毎月、月初に新しいものに貼り替えられていることです。3年以上です。同じ犬で、ほとんど同じ文面で。雨で滲んでくる頃に新しいのが貼られる。
最初は「まだ諦めていないんだな」と思いました。でも3年です。普通、犬は3年も外で生きられない。それでも貼り替えられ続けている。
もうひとつ、これは細かい話ですが、チラシの裏側、左下に、毎月鉛筆で小さく数字が書かれているのに気づきました。先月は「37」、今月は「38」。最初に気づいたのは去年の秋で、そのとき確か「32」だったと記憶しています。月数を数えれば計算は合います。誰かが、何かを数え続けている。
貼り替えるところは一度も見たことがありません。私は朝3時半から配達を始めます。月初は注意して見ていますが、見たことがない。前日の夜まで古いままで、翌朝にはもう新しくなっている。
怪談ではないかもしれません。でも、この貼り紙のことを考えると、夜の道がいつもより暗く感じます。

「夜の道が暗く感じる」という結びが妙に残った。3年継続、しかも誰にも見られないように貼り替えられる、しかも裏に数字が書き込まれている。執着としては強い部類だ。

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02 / チラシの現物

ハマダ氏から、過去6か月分のチラシの写真が、表裏両面とも送られてきた。文面はほぼ同一だ。

チラシ / 抜粋
迷い犬を探しています
名前:コタ(雄・茶色の柴犬・推定12歳)
体の右脇腹に直径3センチほどの白い斑点があります
散歩のとき、必ず三軒目の家の前で立ち止まって動かなくなる癖があります
雷の音が苦手です
見かけた方は下記までご連絡ください
090-XXXX-XXXX

迷い犬のチラシとしては妙な箇所が一つある。「三軒目の家の前で立ち止まる」「雷が苦手」。前者は発見の手がかりとしてほぼ機能しない。後者は単なる飼い主の感慨だ。本気で探すための文面なら省くだろう情報が、わざわざ書き残されている。

写真も同じ犬だ。庭らしき場所で、ややぼやけて写っている。並べてみて、表側にふたつ気づいた。

ひとつ目。紙質がどの月もまったく同じで、しかも新品の張りがある。3年も同じ用紙を使い続けているのは、業務用印刷ではなく、家庭用プリンタで都度刷っているとしか考えにくい。

ふたつ目。写真の右下に、ごく小さな茶色いシミのようなものが、どの月にも同じ位置に写っている。デジタルデータをコピーしているならありえないが、もし「原本の写真を毎回スキャンし直している」のだとすれば、シミは同じ位置に出る。

裏側のほうも確認した。ハマダ氏の言うとおり、左下に鉛筆で月数らしき数字。2025年11月「33」、12月「34」、2026年1月「35」、2月「36」、3月「37」、4月「38」。連続している。最初の貼り紙から数えた月数だとすれば、3年と2か月。

「同じデータを使い回している」のではない。「同じ一枚の現像写真を、毎回スキャンしている」。そして毎月、何かが一つずつ加算されている。

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03 / 電話してみる

連絡先の番号にかけた。呼び出し音は鳴る。10コール、20コール。誰も出ない。留守番電話にも切り替わらない。番号自体は生きているらしい。

3日後、もう一度かけた。同じ。さらに1週間後、時間を変えて朝・昼・夜の3回かけた。すべて、誰も出ない。

ハマダ氏に確認した。「このチラシを見た人で、電話した人はいますか」。

受信:ハマダ / 返信
自分の周りでは聞いたことがありません。配達中に同業の人に聞いたら、一人が「3年前にかけたけど誰も出なかった」と言っていました。それきりだそうです。

3年間、誰も応答していない番号が、3年間、チラシに記載され続けている。

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04 / 番号を辿る

電話番号を、契約者情報を直接調べるルートではなく、ネット上の痕跡から辿った。

090番号は、6年ほど前のフリマアプリの取引コメントに同じ番号が記載されていた。出品者の表示名はフジモトS。出品物は「子供用自転車」「電動シェーバー」など、家庭用品ばかり。プロフィール欄に「○○市在住」とあり、ハマダ氏の配達区域と一致する。

ただし、ここで一度立ち止まる必要があった。090番号は再利用される。フジモトSなる人物が解約したあと、別の契約者が同じ番号を引き継いでいる可能性は十分にある。実際、フリマアプリの取引時期と、最初のチラシが貼られた時期には1年以上の開きがある。

同じハンドルの他の痕跡を追った。地元のペットコミュニティの掲示板にも数件の投稿があった。最新の投稿は約4年前、2022年の冬。

掲示板投稿 / フジモトS(2022年12月)
父が飼っている犬のことで相談です。コタ(柴・12歳)が今朝、急に立てなくなりました。動物病院に連れて行きましたが、内臓の機能がもう落ちているそうです。父は耳が遠くなって以来、ほとんど外に出ません。コタだけが朝の散歩の理由だったので、いなくなったらと思うと父のことが心配です。

返信は2件。「お父様のお気持ちを思うとつらいですね」「最期まで穏やかに過ごせますように」。これ以降、このハンドルの投稿はない。

これでフリマアプリのフジモトSと、掲示板のフジモトSは、同一人物と判断してよさそうだった。「コタ」「柴・12歳」「父の犬」というキーワードが、迷い犬チラシの内容と整合する。電話番号も同じ。最初のチラシが貼られたのが、ハマダ氏の記憶では2023年の春先。掲示板の投稿から3か月後だ。

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05 / 周辺の記録

フジモトSの住所をある程度まで絞り込んでから、市の公開情報を当たった。

○○市の運転免許自主返納者の月例公表に、2023年2月、フジモト姓の70代男性の名前があった。同年4月の町内会の班長持ち回り表からは、その世帯の名前が抜けていた。同年6月の地域包括支援センターの活動報告に、新規介入世帯の数字が「1」増えていた。

直接にはどれも何も意味しない。だが時系列に並べると、何かが起きていることは見える。一人の高齢者の生活が、ある時期に大きく変わっている。

そしてその時期は、最初のチラシが貼られた時期と、ほぼ重なる。

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06 / 印刷物の出どころ

ハマダ氏に頼み、月初のチラシの貼り替え時刻を絞り込んでもらった。夜中の見回りを2か月分してもらった結果、貼り替えは月の1日の夜、22時から24時の間に行われていることがわかった。配達のシフトの隙間で、ハマダ氏が通らない時間帯だ。

5月1日の夜、私は現地に行った。

22時43分。乗用車が一台、現場の電柱の前で停まった。降りてきたのは50代と思われる男女。男性が古いチラシを丁寧に剥がし、女性が新しいチラシをテープで貼り、男性が剥がしたチラシを四つ折りにして上着のポケットにしまった。所要時間1分弱。二人とも会話はなかった。車のナンバーから、フジモト氏の自宅の住所が現場から車で15分の地点であることが確認できた。

翌週、フジモト氏に手紙を出した。本ブログの説明と、調査の経緯と、お話を伺いたい旨を書いた。批判のためではないこと、記事化の可否は事前に確認することを記した。

10日後、フジモト氏の妻から返信が届いた。

受信:フジモトS氏夫人 / 返信
お手紙ありがとうございます。いつかこういう日が来るとは思っていました。
主人と相談しました。お話しします。ただ、お会いするのは平日の昼間にしていただけますか。義父が昼寝をしている時間にしか家を離れられないのです。
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07 / コタの話

5月下旬、市内の喫茶店でフジモト夫妻と会った。夫が穏やかな目をした男性、妻が落ち着いた印象の女性だ。

フジモト氏(夫)の発言
コタは2022年の年末に亡くなりました。父が15歳のときからずっと家にいた犬で、父にとって息子みたいな存在でした。父は、その2年前に母を亡くしていて、コタだけが残っていたんです。
コタが死んだ翌朝、父は「コタがいない」と言って家中を探しました。前夜にうちで看取って、父も泣いて見送ったのに、朝になったら、その記憶がすっかり消えていたんです。
父に「コタは昨日死んだよ」と言うと、その瞬間に父はまた泣くんです。前の晩と同じように、初めて聞いたみたいに。それが毎朝続きました。
一週間ほどして、私は嘘をつきました。「コタは今、ちょっと迷子になってる。すぐ探してくるからね」と。父は安心して、いつものお茶を飲み始めました。

夫はそこで言葉を切り、妻のほうを見た。妻が続けた。

フジモト氏(妻)の発言
ある日、義父が「コタを探すチラシは作ったのか」と聞いてきました。主人が「作ったよ」と答えてしまって。その日のうちに私たちは本当にチラシを作りました。電話番号は主人の昔の番号で、誰からもかかってきません。それでよかったんです。
裏側の数字は、義父に毎月見せるためのものです。「もう38か月も探しているのか」と思われると申し訳ないので、義父に見せるときは数字の部分は折って隠します。あれは、私たち二人だけが見るためのものなんです。何か月探したか、忘れないように。
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08 / 貼り替えるということ

なぜ3年も貼り替え続けているのか、と尋ねた。

フジモト氏(夫)の発言
父はもう外を歩けません。でも、ヘルパーさんに連れられて月に一度だけ、玄関先まで出ます。そのときに、向かいの電柱のチラシが目に入るんです。
ある月、雨で滲んで読めなくなっているのを父が見て、「あの子のチラシが消えそうだ。早く作り直してやってくれ」と言いました。それきり、その電柱のチラシだけは、必ずきれいな状態で保っています。
チラシに「三軒目の家の前で立ち止まる」と書いてあるのは、父の希望でした。散歩のとき、コタはいつも近所のサトウさんの家の門の前で動かなくなったんです。サトウさんがよく缶詰を分けてくれていたので。父は「コタを見つけたら、その癖でわかる人もいるはずだ」と言いました。あの一文だけは、私には書けません。父が書いた手書きの原稿を、毎月そのまま写しています。
コタの写真は、フィルム時代の一枚しか手元になくて。父の家の引き出しにずっとしまってあったやつです。それを毎月スキャンして印刷しています。元の写真には、父が当時お茶をこぼしたシミがついていて、それが毎回そのまま出てしまうんですが、もうそれはそれでいいかと思っています。

写真の右下のシミ。手元のチラシをもう一度見直した。3年前の最初のものから、最新のものまで、まったく同じ位置に、同じ形のシミが残っている。

3年分の月日が、その一点だけ、変わらないままだ。

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09 / ヘルパーの話

掲載許可を得たあと、フジモト夫妻の同意のもと、入っているヘルパーの一人に短く話を聞いた。週に三度、午前中の身体介助に入っている方だ。

ヘルパー氏(40代女性)の発言
お父様は普段はとても穏やかです。コタちゃんの話もよくされます。「うちのコタはな、雷が苦手でな」って、何度も同じ話を。
ただ、これは一度だけなんですけど、夜の見守りに入ったときに、お父様が一人で起きていらっしゃって、独り言を言っていたんです。私が来たことには気づかれていなかったと思います。「もう帰ってこんよ、あの子は」と、一度だけ。
翌朝はいつも通りでした。息子さん夫婦の前では、コタちゃんはまだ探されています。

夫妻にこのことを伝えるかどうか、私は短く迷い、伝えなかった。夫妻が知らない可能性も、知っていて知らないふりをしている可能性も、両方残しておくべきだと判断した。

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10 / 一度だけ鳴った電話

最後に夫が、少し迷ってから付け加えた。

フジモト氏(夫)の発言
番号に、一度だけ電話がかかってきたことがあるんです。半年くらい前です。
出ると、女性の声で「茶色の柴犬を保護したかもしれない」と。よく聞くと、別の地域の方で、特徴が違いました。違う犬でした。私が「ありがとうございます。違うようです」と言ったら、その方は「そうですか、見つかるといいですね」と言って切られました。
その日は、父の調子がよくて、コタの話を覚えていた日でした。「電話があったのか」と聞かれて、「うん、似た犬を見つけてくれた人がいた。違ったみたいだけど」と答えました。
父は少し笑って、「コタは人気者だな」と言いました。

夫は喫茶店の窓のほうを向いて、しばらく何も言わなかった。妻が小さく頷いた。

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11 / 不自然点の整理
確認できること
  • チラシの貼り替えは、フジモト夫妻が毎月1日の夜に行っている
  • 「コタ」は2022年12月に老衰で死亡しており、現存しない
  • 裏面の鉛筆書きの数字は、最初の貼り紙からの月数である
確認できないこと
  • 夫妻が、父親が真相に薄々気づいている可能性をどこまで知っているか
  • 本当に「コタが見つかったらどうするのか」を、夫妻自身が決めているのかどうか
  • 三軒目の家のサトウ氏が、コタの死を知っているか
気になる点
  • 父親は月に一度だけ玄関先に出る日がある。その日は必ずチラシが新しい状態に保たれている
  • 夫妻はこの行為を3年以上、誰にも知られず続けている。ハマダ氏が気づくまで、近隣からの問い合わせもなかった
  • ヘルパーが聞いた父親の独り言が、一度きりのものか、繰り返されているものかは確認できなかった
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12 / 記録を終えるにあたって

本記事の掲載について、フジモト夫妻に最終確認を取った。返事はこうだった。

受信:フジモトS氏夫人 / 最終返信
主人と話し合いました。掲載していただいて構いません。
ただ、義父が読むことはありませんが、もし万が一、義父の知り合いの方が読まれて、義父に話されるようなことがあれば、ひとつだけお願いがあります。
義父に対して、「コタは見つかったか」と聞かないでください。「コタは元気か」と聞いてください。
義父にとって、コタはまだ、どこかで探されている最中の、生きている犬です。

ハマダ氏には、概要のみを伝えた。「闇ではなかった」と告げると、彼は電話の向こうで少し黙ってから、「夜の道が、今夜から少し明るく感じそうです」と言った。

そういうわけで、本件は調査終了として記録に残す。

管理人追記
掲載準備のために、ハマダ氏から送られた過去6か月分のチラシの写真を、もう一度並べて見直した。

4月分だけ、コタが少し笑って見えた。

同じ一枚の写真をスキャンしているはずだった。

確認のためにフジモト夫妻にメールを送ったが、返信は今のところない。

電柱のチラシは、今月も新しくなっている。先週、私は現地に行ってみた。雨上がりの午後で、写真の右下のシミだけが、わずかに濡れて、いつもより色濃く見えた。

裏面の数字は、「38」だった。

 

 

 

街角の青いステッカー


CASE-061 / 未解決
管理人注記 以下は2026年3月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年3月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はカワノと名乗る30代の男性。地方都市で個人事業の宅配を営んでいるという。文面の末尾に「夜中に思い出すんで、もう書いておきたくて」と添えられていた。

投稿者:カワノ / 原文
はじめまして。担当エリアで気になっていることがあって、メールさせてもらいました。
3ヶ月くらい前から、配達で回っている家の外側に、青いステッカーが貼られているのを見かけるようになりました。爪くらいの大きさです。「N-7」とか「N-12」とか書いてあります。
最初は気にしていませんでしたが、数が増えてきて、貼られている場所に共通点があると気づきました。ガスメーターの脇、室外機の側面、郵便受けの裏。外からは見えるけれど、住んでいる人からは見えにくい位置です。
ガス会社にも電気にも問い合わせましたが、うちのシールではないと言われました。剥がした家もあるのですが、二週間ほどで別の家に新しいものが貼られていました。
仕事柄、人の家のすぐ脇を毎日歩いています。剥がした後の粘着の跡が、新しいものは青く、古いものは黄色く乾いてる。それが何ヶ月分も重なってる家があって。私が見つけるよりずっと前から、貼って剥がしての繰り返しがあったみたいです。夜中に思い出すんで、もう書いておきたくて。

写真は3枚。住宅街の家屋の側面。記号は「N-7」「N-12」「K-3」。書体は同じ印刷シールのようだ。

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02 / ステッカー

カワノ氏に追加で確認した。

受信:カワノ / 返信
ステッカーは、私が確認できているだけで32軒。担当エリアの全戸数のうち、おおよそ二割弱です。戸建てが多く、世帯主が年配の方の地区に集中しています。マンションには貼られていません。
剥がしてもまた現れますが、同じ家に二度貼られた例はありません。一度剥がされた家はそのまま放置され、代わりに隣接する別の家に新しいステッカーが現れます。
記号は「アルファベット1字-数字1〜2桁」の形式で固定。アルファベットはN・K・M・Sの4種類、数字は最大で18まで確認しています。ただ、古い粘着跡を見ると、同じ場所に二代目、三代目が貼られている家もあるみたいです。

二割弱、という規模は、業者の単なるマーキングにしては多すぎる。福祉訪問のメモにしては露骨すぎる。粘着跡が世代をなしているという指摘が、頭に残った。判断を保留して、仮説を一つずつ潰すことにした。

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03 / 仮説の検討

想定される仮説を順に当たった。

業者の符丁:宅配・郵便・新聞販売のいずれにも、このような規格のマーキング文化はない。現場の符丁はチョークやテープで残されるのが一般的で、印刷シールが広域に展開される例は確認できなかった。

福祉団体のマーキング:地域包括支援センターおよび社会福祉協議会いずれも、「対象世帯を外見上識別する形でマークすることはあり得ない」との回答。

犯罪下見:「アポ電」や空き巣のマーキング事例は報道されているが、より目立つ位置に、より単純な記号が使われるのが通例。十年以上同じ規格を維持し続けている点も合わない。

インフラの点検シール:ガス・電気・水道・通信、いずれの規格にも該当せず。

仮説はいずれも当てはまらないか、当てはまるには無理がある、というところで止まった。ステッカーは配達ドライバーには見える位置に、住人には見えない位置に貼られている。これは偶然の選択ではない。

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04 / バッグの底

取材の途中で、カワノ氏から短いメールが届いた。

受信:カワノ / 追加
すみません、いま気づいたんですが、自分の配達バッグの底に同じステッカーが貼ってありました。「M-4」。いつから貼られていたか、まったく覚えがありません。
このバッグ、家族にも触らせないようにしてるんです。それが、いつの間にか、底に貼られてた。気持ち悪いというより、自分の覚えてない時間がある気がして、それが嫌です。

カワノ氏のバッグは個人所有で、配達中以外は自宅に保管されている。

家への印は「その家を識別する」目的に解釈し得るが、バッグへの印は「その人物の動線を辿る」目的に近づく。意味が違う。

「これまでバッグを長時間目を離した場面」を尋ねると、挙がったのは三つ。配達中の昼食、配達先での待機中、自宅前に車を停めたまま夕食をとった日。いずれも数十分から一時間。

別件のように、もう一通追加のメールが届いた。「最近、配達してて、見られてる気がすることが多いです」。

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05 / タカハラさんの話

カワノ氏の紹介で、同じ地区で以前まで宅配の仕事をしていたタカハラ氏(40代男性、現在は別業種)に話を聞いた。

取材:タカハラ氏
ああ、あの青いやつね。あれ、僕がやってた頃からあったよ。十年は経ってる。
何のシールかは知らない。聞いたこともない。ただ、配達してると、家の外回りで目につくんだよね。
増えてるかどうかは分からない。気にしてなかったから。気にしてなかったけど、覚えてはいる。「ああいうのはあるよね」って、ずっと前から思ってた。

「ずっと前から思っていた」という言い方が、少し気になった。気にしていない人は、ずっと前から思ってもいないものだ。

タカハラ氏に「今でも見かけることはあるか」と尋ねた。「最近は配達やってないから見ない。だけど、見ない場所で見たことがあるよ」と答えた。詳細を聞くと、「いや、なんかそんな気がしただけ」と笑って話題を変えた。

別れ際、タカハラ氏は脈絡なく「最近、知らない番号から電話が来るんだよね。出ても無言なんだ」と言った。それも気にしてない口調だった。

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06 / 解読の試み

仮説がいずれも当てはまらないなら、ステッカーの記号自体に意味があるのではないか。カワノ氏から、貼られた32軒の住所と記号の対応表を提供してもらい、地図上にプロットして整理した。

アルファベットには地理的な偏りがあった。N=北、K=中央、M=南東、S=南西。担当エリアを4区画に分けるとほぼ対応する。数字は、各区画内である順序に従って付番されているように見えた。番号順に地点を結ぶと、4本の折れ線が描かれた。

ここまでは綺麗に通る。問題はその先だった。

カワノ氏から半年前の対応表も合わせて送ってもらっていた。同じ家屋の同じ位置に貼られていたはずの番号が、現在のものと一致しない家が複数あった。半年前「N-9」だったメーター脇が、いま「N-3」になっている。番号は固定されておらず、貼り替えのたびに付け直されている。

折れ線の形も半年で変わっていた。北部の終点は半年前のほうが東に150メートルほどずれ、別の地点を指していた。同じルールで読み取れる地図が、半年で別の場所に向く。

さらに、南東区画について妙な点があった。番号「M-1」から「M-14」を順に結ぶと、自然な流れの中に一箇所だけ、いくら確認しても住所が存在しない地点が含まれた。地番として欠番なのではなく、現実の街区上にその座標が存在しない。

体系として読み取れる。だが、体系として閉じない。

それでも、現時点の対応表で読み取れる範囲では、1地点について日付と時刻が浮かび上がった。市内の小さな児童公園、5月のある木曜日、午後7時。他の3地点については数値が一意に定まらなかった。

私はいま、何度も書き換えられている体系の、ある一瞬の断面を見ている。試しに行ってみることにした。

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07 / 現地

5月のある木曜日、午後6時50分に現地に着いた。

小さな児童公園で、ブランコと滑り台、ベンチが2つ。周囲は住宅街で、人通りは少ない。

公園内には、年配の男性が一人、奥のベンチに座っていた。スマホは持っていない。本も雑誌もない。何もせず、ただ正面を向いて座っている。私が手前のベンチに座ると、視界の端で確認するように、ほんの一瞬だけ顔の角度が変わった。

午後7時ちょうど、男性が腕時計を見た。それから周囲をゆっくり見回した。私と目は合わなかった。

午後7時2分、自転車が公園の入口を通過した。中年の女性、前カゴに買い物袋。

午後7時14分、同じ自転車が、同じ方向に再び通過した。前カゴの中身は同じに見えた。

午後7時15分、男性が立ち上がって公園を出ていった。私とは反対側の出口だった。

7時半まで座って、それから帰った。帰路で、来るときに通った路地に入ろうとして、足が向かなかった。一本ずれた、明るいほうの通りを選んで歩いた。なぜそうしたのか、自分でも説明がつかない。

帰宅して靴を脱いだとき、左足の靴底に青い粘着剤が薄く付着していた。爪ほどの大きさで、わずかに四角い輪郭が残っていた。公園内で何かを踏んだ覚えはない。粘着剤はぬるく、まだ完全には乾いていなかった。

その日のことは、記事の中で「特に進展なし」と書いて締めようとしていた。観察に値する出来事は、何も起きていない。記事はここで一度終わるはずだった。

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08 / 前任者

記事を仕上げる前に、もう一つだけ確認しておきたいことがあった。

カワノ氏が担当エリアを引き継いだのは3年前。前任者のタナカ氏(50代男性)に「ステッカーに気づいていたか」を尋ねた。

取材:タナカ氏
気づいてたよ。あれ、誰のだろうって思ってた。
担当してた頃、ちょっと調べたことがあるんだ。家を地図に落として、数字を結んだら、線が出てきてさ。線の終点に行ってみたこともある。何もなかったけどね。
メモも残ってる。当時のノートを今日見返したんだけど、変な話、半分くらい字がかすれてて読めないんだ。鉛筆で書いたんだけど、こんなに薄くなるかね。覚えてる箇所だけ書き写したよ。

タナカ氏から送られてきた書き写しには、地点番号と地名がいくつか並んでいた。地名はカワノ氏の対応表とは異なるエリアのもので、付番体系も現在と違っていた。アルファベットがT・H・Y・Iの4種類。

タナカ氏に「その後、変わったことはあったか」と尋ねた。少し考えてから、こう答えた。

取材:タナカ氏(続き)
いや、特に。前のエリアで仲良くしてた家族が、私が異動した半年後くらいに引っ越したらしいけど、それくらいかな。
年賀状は引っ越し先からも届いてた。差出人のとこに、家族みんなの名前を書く家だったんだ。引っ越して二年目から、上のお子さんの名前だけ書かれなくなってた。三年目は奥さんの名前もなかった。今年はもう、家族写真の年賀状じゃなくなってた。

その家族が今どうなっているか、タナカ氏は知らない。連絡は途絶えている。

タナカ氏は「気づいて、解いて、現地に行って、何もなかった」までを経験している。私と同じ経路を辿っている。

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09 / 自宅

記事の公開を翌日に控えた夜、原稿を最終確認していて、ふと気になった。自分の家の中をひととおり見て回った。

玄関のドアスコープの内側、リビング側に、爪ほどの青いステッカーが貼られていた。「N-7」。

仕事机のPCモニターの背面の、ケーブル接続部の脇に、もう一つ。「K-3」。

玄関ポストの底にも一つ。「M-4」。これはカワノ氏のバッグに貼られていたのと同じ記号だ。

いつから貼られていたのか、まったく分からない。いずれも視界の隅に入ってこない位置にあった。

家屋の外側に貼られた32軒のステッカーを思い返した。ガスメーター脇、室外機の側面、郵便受けの裏。いずれも、住人が直接見はしないが、住人が毎日その前を通る位置だ。

自宅で見つけた3箇所も同じだった。ドアスコープは出かけるときに必ず覗く。モニターは仕事中、ずっと前にある。ポストは帰宅のたびに開ける。一日のうち、私が繰り返し体を寄せる場所に、過不足なく一つずつ貼られていた。

「家屋を識別する」ためではなく、「私の動線を識別する」と読むほうが自然な位置どりだった。

写真を撮ろうとしたとき、フラッシュが点灯した。普段は自動でオフにしている。設定を確認したが、自動オフのままになっていた。

それから玄関に戻った。靴の並びが、自分の置き方ではなかった。ポストには鍵がついている。底に手を入れるには、鍵を開ける必要がある。鍵は私と家族しか持っていない。

確認できた範囲で写真を撮り、剥がさずにそのままにした。

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10 / 不自然点の整理
確認できること
  • カワノ氏の担当エリア内の32軒に規則性を持つ青いステッカーが貼られ、剥がしても一定期間後に別の家に新しいものが現れる。「アルファベット=区分/数字=順序」として一定の解析は可能だが、同じ家屋の番号が時期によって書き換えられており、体系は固定されていない
  • タナカ氏は10年以上前から同様の現象を観察しており、当時は現在と異なる付番体系(T・H・Y・I)が使われていた
  • カワノ氏の配達バッグ、および管理人の自宅内にも、同じ規格のステッカーが貼られている。位置はいずれも「対象者が日常的に繰り返し体を寄せる場所」に限られる
確認できないこと
  • 解読された折れ線の終点に行った人物が、観察されているのか、観察されていないだけなのか
  • タカハラ氏の発言と、現在彼にかかってくる無言電話との関係
  • タナカ氏の前任エリアで、ある家族の年賀状から名前が一人ずつ消えていった経緯
気になる点
  • 記号体系を「人にも番号が振られている」と読んだ場合、カワノ氏のバッグの「M-4」、管理人の自宅の「N-7」「K-3」「M-4」の組み合わせが何を意味するのか、結論は出ない
  • 南東区画の番号を順に結んだ折れ線の中に、現実の街区上には存在しない地点が一つ含まれていること
  • 帰宅後、管理人の靴底に付着していた青い粘着剤の輪郭が、ステッカーとほぼ同じ大きさだったこと
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11 / 記録を終えるにあたって

記事の公開直前に、ブログの問い合わせフォームに一通のメールが届いた。件名なし。本文一行。

受信:差出人不明
お読みいただきありがとうございます

送信元のメールアドレスは複数の中継サーバーを経由したもので、特定は難しかった。

カワノ氏には、自宅の写真を含めた経過を共有した。返信はまだ届いていない。

管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • 宅配・郵便・新聞配達などの業務中に、「アルファベット-数字」形式のステッカーを継続的に目撃した経験のある方
  • 特定の地点に出向いた後、何らかの接触や観察を感じた経験のある方
  • 本記事中の記号、または過去の体系「T・H・Y・I」の付番に心当たりのある方
一行のメールの「お読みいただき」が、誰に宛てた言葉だったのか。
管理人ひとりを指すのか、それとも、もっと広い範囲を指すのか。
いまも、わからない。

 

 

 

振り込まれ続ける謝礼


CASE-060 / 未解決
管理人注記 以下は2026年6月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年6月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はタチバナと名乗る四十代の女性だ。地方都市にお住まいの主婦で、夫について相談したい、と書かれていた。文面は落ち着いていたが、最後に「気のせいだと思いたいんです」と添えてあった。

以下、原文をほぼそのまま掲載する。

投稿者:タチバナ / 原文
はじめまして。妻として何を心配すべきなのか、自分でもよく分からないままお送りします。
夫のことで、三年前からずっと気にかかっていることがあります。家族にも、職場の同僚にも、何度か話してみたのですが、「考えすぎだよ」とか「ご主人、外では変わりないんでしょ?」と返ってきてしまって、それで終わりになります。並べて聞いてくださる第三者がいなくて、こちらに辿り着きました。
三年前のことです。夫が、副業のような感覚で、一週間ほどの宿泊型の治験に参加しました。製薬会社の依頼で、市内の臨床研究センターで実施されたものです。報酬は二十万円ほど。夫はそのお金で家のエアコンを買い替えるつもりで、軽い気持ちで参加していました。
治験そのものは、表向き何事もなく終わりました。退所後の通院も数回で済み、書類上はそれで完了です。
問題は、その翌年からです。
毎月十五日、夫の口座に三万八千円が振り込まれるようになりました。振込元は「リサーチサポートあすか」という、聞いたことのない一般社団法人です。摘要欄には「研究協力謝礼」とだけ書かれています。最初の数か月は事務処理の遅れかと思っていたのですが、二年経っても止まりません。
夫に確認しても、「条件を守っているうちは続きますよ」と言うばかりで、それ以上は話が進みません。
そして、夫自身が、三年前と少し違うように見えるんです。
何が、と言われると、うまく説明できません。気のせいだと思いたいんです。だからこちらに送りました。

「気のせいだと思いたい」と書いて送ってくる人は、たいてい外部の確認を必要としている。否定してほしいわけでも、肯定してほしいわけでもなく、ただ並べて見てくれる第三者がほしいのだ。タチバナ氏の文面からも、その距離感が伝わってきた。

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02 / 振込元

「リサーチサポートあすか」という法人について調べた。

法務局で登記簿を取得した。設立は2023年4月。タチバナ氏の夫の治験参加の十か月後にあたる。代表理事として登録されているのは某司法書士で、所在地は都内のオフィス街の住所だったが、現地を確認すると、ビルの一室にある私書箱代行サービスの一区画だった。実体としての事務所はない。

定款の事業目的には、「医学・薬学研究の協力支援」「研究協力者への謝礼支払代行」「研究データ管理補助」などが並んでいる。代表司法書士の事務所に電話で問い合わせたところ、「個別の業務内容についてはお答えできない」「設立業務のみを請け負った」との回答だった。

法人の設立翌月、つまり2023年5月から、タチバナ氏の夫の口座への振込が始まっている。金額・振込日とも、三年間で一度も変動していない。タチバナ氏に利用明細を見せていただくと、三万八千円の振込が、判で押したように毎月十五日、午前九時00分前後に着金している。

金額そのものに、何か意味があるのではないか、と当初は疑った。三万八千円という中途半端な額は、たとえば月四回の定期面談を想定した通院交通費の標準値、あるいは協力者一名あたりの観測管理費として、研究費補助の枠組みのなかでは違和感なく説明できる数字でもある。ただし、それは「そう説明できる」というだけのことで、実際にそのような名目で支払われているという裏付けはどこにもない。

「あすか」という名称の由来は、登記簿からは読み取れない。

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03 / 「条件」という言葉

タチバナ氏の許可と、ご本人の同意のもとで、夫に直接質問させていただく機会を得た。書面でのやりとりだった。

管理人とタチバナ氏ご主人 / 書面でのやりとり
管理人「『条件を守っている』というのは、どのような条件でしょうか」
ご主人「これは……うまく言えないんですけど、暮らしのなかで、これは続けたほうがいい、これはやめたほうがいい、というのが感覚としてあるんです」
管理人「具体的には」
ご主人「具体的に、と言われると、出てこないですね。やってみないと分からないので」
管理人「治験のときに、何か条件を伝えられたのでは」
ご主人「条件は、特に。普通の治験だったと思います」
管理人「治験の内容は、覚えていらっしゃいますか」
ご主人「睡眠中の脳波と、覚醒直後の判断能力を測るタイプの試験だったと記憶しています。投薬は一度きり、ごく少量だったと聞きました」
管理人「薬剤名や試験番号は」
ご主人「思い出せませんね」

「やってみないと分からない」という言い方は、興味深かった。条件を意識的に守っているのではなく、何かに反する行動を取ろうとしたときに「これはやらない方がいい」と感じる、という意味にも取れる。条件は本人の中に存在しているが、本人の言葉の届く場所にはない。

念のため、治験を実施した「市内の臨床研究センター」に問い合わせた。担当者は丁寧に対応してくれたが、「個別の参加者の情報はお答えできない」と返ってきた。研究センター自体は実在し、現在も別の治験を継続的に実施している。

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04 / 三年で変わったもの

最初の投稿のなかで、タチバナ氏は「夫が三年前と少し違うように見える」と書いていた。具体的に思い当たることを書き出してもらえないか、と返信した。タチバナ氏からの返信は五日後に届いた。

受信:タチバナ / 返信
書き出してみて、自分でも驚きました。一つひとつは、ささいなことです。
体調のノートを毎日つけるようになりました。体重、血圧、脈拍、睡眠時間、便通の有無まで、細かい数字で。欄外に「BP128/82」「HR62」「SpO2 97」とアルファベットの略号も書いてあります。夫は文系で、医学の勉強はしたことがありません。私は看護師ではないので意味は分かりませんでしたが、ネットで調べると医療現場で使われる略号でした。
数字をつけているノートは、夫の本棚の下から二段目に立てかけてあります。三冊目に入っていました。
それから、夫が人を見るとき、ふっと視線が止まることがあります。スーパーのレジで前に並んでいる男性、コンビニで入れ違いになった年配のお客さん。夫はそういう人を見たあと、車に戻ってから「あの人、肝臓があまりよくないかもしれないね」と言うんです。
一度だけ、夫の同窓会で同席した方について「彼はあと半年で体重が四、五キロ落ちる」と言ったことがあって、半年後、その方は入院されました。胃の悪性腫瘍でした。
その方が入院されたとお知らせを受けたとき、私は夫に「あなた、半年前に言ってたよね、痩せるって」と話しました。夫は箸を止めて、「そうだったかな」と首をかしげて、それきりでした。当てたことを誇るでもなく、不思議がるでもなく、本当にその発言の記憶がないようなんです。
そういうのが、最近、増えました。
もうひとつ、思い出したことがあります。半年ほど前、夫と二人で買い物に出かけたとき、たまたま夫が三年前に治験を受けたビルの前を通りかかったんです。私はそのときビルに気づいていなかったんですが、夫は数歩手前で急に黙り込んで、信号待ちのあいだ、ずっと足元を見ていました。何かあった?と訊いても、「いや、何でもない」とだけ。あとから道順を思い返して、ああ、あのビルだ、と気づきました。
それからは、あの界隈を通るとき、夫はいつも口数が少なくなります。本人に「あなた、あの建物の前で黙るよね」と指摘しても、「そんなことしてないよ」と笑うんです。
自分でも、おかしなことを並べているように見えるかもしれません。夫は外から見ると、本当にふつうの中年男性です。会社の方には「最近やさしくなった」と評判もいいくらいなんです。だから何度も、変だと思っているのは私のほうじゃないか、と考えました。それでも、ノートの数字と、視線の止まり方と、当ててしまう未来と、あの建物の前での沈黙は、なかったことにはできないんです。

医学の知識のない人間が、見ただけで肝臓の状態や数か月後の体重変動を当てる、というのは説明がつかない。専門家でも、見ただけで分かることには限度がある。

ノートの写真も送っていただいた。本人の筆跡で、確かに細かい数字が並んでいる。略号の使い方は、医療従事者として見て、概ね適切だった。

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05 / 同僚の話

タチバナ氏の許可を得て、夫の職場の同僚一名に話を聞いた。古い知り合いで、ご夫婦ぐるみで付き合いのある方だ。

同僚M氏 / 電話での回答
タチバナさんね、変わったって言われたら、ええ、ちょっと変わったかな。本人は気づいてないと思うけど。
うちの課に去年入ってきた契約社員の若い子がいるんです。実家との折り合いが悪くて一人暮らし、お給料も決して多くなくて、休みの日はずっと部屋にいるような子。タチバナさんが、その子に何度か声をかけてるのを見ました。
「副業に興味ない?」「いい話があるよ」って。
具体的な中身は教えてもらってないみたいです。その子に「どんな話なんですか」って聞いても、「タチバナさんが、まだ詳しくは話せないって」と。
そのあと、別の若手にも、似たような声かけをしているのを見ました。今度は、独身で、ご両親を早くに亡くしている方です。健康診断を毎年受けてないって本人が話してたのを、私は覚えてるんですけど、なんでタチバナさんがそれを知ってるのかは、分からないですね。

声をかけられた二名に共通する属性──単身、家族との関係が薄い、健康診断を受けていない──は、いずれも、誰かが何かの被験者を集めようとする際に都合のいい条件として読める。タチバナ氏の夫自身が三年前にどのように勧誘されたか、私は知らない。けれど、似た特徴を持つ人物として彼自身があったとしても、不思議ではない。

集められた側の人が、いつの間にか集める側に立っている──というのは、おそらく私の読みすぎだろう。読みすぎなら、それでいい。

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06 / 「もうすぐ自分の番だね」

タチバナ氏に、夫の発言で記憶に残っているものがあれば、と尋ねた。返信のなかに、強く心に残ったものが一つあった。

受信:タチバナ / 返信
最近、夫が、何の話の流れでもないところで、「もうすぐ自分の番だね」と呟くことがあるんです。
二週間ほど前、夕食のときでした。テレビでニュースをやっていて、私は炊飯器の前にいて、夫は箸を持ったままぼんやり画面を見ていました。それで急に、「もうすぐ自分の番だね」と。
「何の番?」と聞いたら、夫はちょっと驚いた顔で、「何の話だっけ」と。自分が口に出したことすら覚えていないようでした。
同じような呟きを、もう一度聞きました。先週、お風呂上がりに、夫が髪を拭きながら鏡を見て、「もうそろそろだね」と。何の話?と聞くと、また「何の話だっけ」と。
夫は、自分の話していることを、自分で聞いていないみたいなんです。

発した本人に、その発言の直後に記憶がない。生活全般に問題が出ているわけではない。特定の発話だけが、本人の意識からこぼれ落ちている。

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07 / ノート

掃除のついでに書斎を片付けていたら、見たことのないノートが出てきた、とタチバナ氏から連絡があった。机のいちばん奥の引き出し、書類の束の下。

受信:タチバナ / 追加報告
A6サイズの、市販のリングノートです。表紙には何も書かれていません。中を開くと、夫の字で、年表のような形式で何かが書かれていました。
「一九八〇年 誕生」「一九八六年 弟の誕生」「一九九三年 父の単身赴任」「一九九五年 阪神大震災、テレビで」「二〇〇二年 高校卒業」……。夫の半生でした。小学校の出来事、中学の部活、大学受験、就職、私との出会いと結婚、子どもが生まれたこと、そして、三年前の治験に参加したこと。
時系列に箇条書きで、一行ずつ、淡々と。だいたい七十項目ありました。
最後のページに、「ここまで」と、それだけ書かれていました。
その先のページは、すべて白紙でした。
夫に聞いたら、「これは……俺が書いたの?」と。書いた覚えがない、と言うんです。筆跡は間違いなく夫のものでした。

「ここまで」と書いて、その先を空けてあるノート。何かを引き継ぐ前に、手元の記録を整理しているような形式だ。あるいは、ここまでの人生を一度区切るための。書いた本人にその記憶がないという点が、いちばん引っかかった。

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08 / 辞退の手続き

タチバナ氏は法人に対し、振込の辞退を申し入れた。回答は二日後に届いた。

一般社団法人リサーチサポートあすか / 返信(抜粋)
お申し出ありがとうございます。
ご辞退のお手続きは可能ですが、規約上、ご本人様による事前面談が必要となります。
下記の日時・場所をご確認のうえ、ご本人様にてお越しくださいますようお願い申し上げます。
ご面談所要時間:約二時間
ご面談場所:××市××町三丁目 ○○記念ビル四階

タチバナ氏が確認したところ、「○○記念ビル四階」という住所は、三年前に夫が治験を受けた臨床研究センターと、同じ建物の同じフロアだった。フロアの区画割が二、三度変わっているらしく、現在は別の事業者の名義になっているとのことだが、入口は同じ、エレベーターも同じ、内装も大きく変わっていないという。

タチバナ氏は夫に、辞退面談の話をした。

受信:タチバナ / 返信
夫は、最初は何も言いませんでした。少し考え込んで、「行ったほうがいいんでしょうね」と。
「行きたくない」とは言いませんでした。「行きたい」とも言いませんでした。
ただ、思い出したことがあります。半年くらい前、振込のことを話していて、私が「やめたら?」と冗談半分で言ったことがあるんです。そのとき夫は、ぼそっと、「行ったら、戻ってこられなくなる気がする」と言ったんです。
そのときは何の話かよく分からなくて、聞き流しました。今になってその言葉のことを夫に確かめたんですけど、夫はその発言の記憶もないと言うんです。

「行ったら、戻ってこられなくなる気がする」。夫の意識の上には出てこない言葉が、半年前に一度だけ、口をついて出ていた。「行ったほうがいいんでしょうね」と「戻ってこられなくなる気がする」は、同じ人の中で両立している。

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09 / 最後のメール

タチバナ氏からの最後のメールは、面談の前夜に届いた。

受信:タチバナ / 最後のメール
明日、夫を送り出します。
行ってきます、と言わせて、行ってらっしゃい、と返すつもりです。
帰ってきたとき、夫が、ノートに「ここまで」と書いた続きの白紙を、新しく埋め始めるのかもしれません。あるいは、そのノートを「もう要らない」と捨ててしまうかもしれません。
どちらだとしても、それは私の知っている夫とは、もう少し違う人なのだと思います。
何かあったら、ご連絡します。

それから三週間が経つ。タチバナ氏からの連絡はない。

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10 / 不自然点の整理
確認できること
  • 「リサーチサポートあすか」は実在する一般社団法人で、代表者は司法書士、事業実体は外部からは確認できない
  • タチバナ氏の夫の口座に、三年間、毎月十五日に三万八千円が振り込まれ続けている
  • 面談指定場所と、三年前の治験施設は、同じ建物の同じフロアにある
確認できないこと
  • 治験のプロトコル番号と、投与された薬剤の正体
  • 夫の中で「条件」と呼ばれているものの具体的な内容
  • タチバナ氏が現在も無事に暮らしているのか
気になる点
  • 夫の発した言葉のうち、特定のものだけが本人の記憶に残らない
  • 半生ノートの「ここまで」が、何かを引き継ぐ前段の整理のように読める
  • 夫が一度だけ呟いた「戻ってこられなくなる気がする」という発言と、面談の指定が「ご本人様」に限られていることが、構造的に符合している
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11 / 記録を終えるにあたって

タチバナ氏からの連絡が途絶えて三週間後、振込元の一般社団法人について、登記簿を取り直した。代表理事の欄に、変化はなかった。

ただ、事業目的の項目が一行、増えていた。

「研究協力者からの移行支援」。

この一行は、三週間前に取得した登記簿にはなかった。事業目的の変更登記は、申請から登記完了までに通常二〜三週間を要する。逆算すると、変更の申請はタチバナ氏が辞退面談を申し入れた頃と重なる。「移行支援」が何を指しているのか、定款や公開資料からは読み取れない。

それからもうひとつ、念のため、これまでに本ブログへ寄せられた過去の投稿メールを検索してみた。三年ほど前、別の県にお住まいの方から、似たご相談を一件受けていたことが分かった。当時大学生だったご息女の口座に、月額三万八千円が一定期間振り込まれていたという内容だった。途中で「無事に止まりましたので大丈夫です」とだけ短い連絡が届き、それきりやりとりは途絶えている。

同じ金額。同じ振込日。振込元の法人名だけが違っていた。あちらは「リサーチサポートあすか」ではなく、別の似た響きの一般社団法人だった。

タチバナ氏のメールアドレスに、念のため一通だけメッセージを送った。「ご無事でしょうか」とだけ。返信は来ない。

代わりに、別件で連絡を取っていた同僚M氏から、短い追伸のようなメッセージが届いた。「ご報告しておこうと思って。あの契約社員の子、来月から短期の治験のバイトに行くそうです。タチバナさんに紹介してもらった業者だって、嬉しそうに話してました」とだけあった。それ以上のことは書かれていない。

管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • 宿泊型の治験参加後に「研究協力謝礼」名目の継続振込を受けている、または受けていたご経験のある方
  • 「リサーチサポートあすか」または類似の名称の法人から連絡を受けたことのある方
  • 治験参加後にご家族・ご友人の様子の変化を感じたご経験のある方
三万八千円の振込日である毎月十五日は、もう過ぎている。それが今月も判で押したように行われたのかどうか、こちらに確かめる手段はもうない。

 

 

 

先に住んでいた人


CASE-059 / 未解決
管理人注記 以下は2026年5月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年5月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はナガオと名乗る30代の女性だ。文面は丁寧で、句読点の打ち方も整っていた。錯乱や混乱の気配はなかった。

投稿者:ナガオ / 原文
はじめまして。突然のご相談で失礼いたします。
付き合っている彼と、1ヶ月ほど前から連絡が取れなくなっています。
2年お付き合いしている方で、ハルキといいます。35歳、建設関係のお仕事です。出張が多くて、半年に一度くらい、1〜2週間連絡がつかないことはこれまでもありました。でも今回は1ヶ月になります。長すぎる気がしていて。
警察にも相談しましたが、ご本人の意思でしたら事件性はない、ご家族でもないと動けない、と言われました。
探す手立ては、何かないでしょうか。

「ご家族でもないと動けない」というのは事実だ。同棲もしておらず、婚姻関係にもない交際相手の安否確認は、警察の捜索対象になりにくい。

ナガオ氏に追加で事情を聞かせてもらうことにした。

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02 / ハルキ氏のプロフィール

聞き取りで得られた情報を以下にまとめる。

名前:ハルキ
年齢:35歳(誕生日は3月、生年月日までは聞いていない)
職業:建設関係、現場の管理をしている
出張先:北関東から東北にかけて多い
家族:両親と妹一人、ご両親は別の県に住んでいる
会う頻度:月に2〜3回、彼女の家で過ごすことが多い

ここまでは、よくある聞き取り内容に見える。

ただし、いくつかの基本情報——勤務先の社名、生年月日、出身校、両親の住む県名——を聞くと、ナガオ氏はそのつど「そう言えば、ちゃんと聞いたことはないかもしれません」「会社のお名前は聞いたんですけど、すぐ出てこなくて」と答えた。2年付き合っていて、社名が出てこないのは少し珍しい。ただ、人によっては相手の職場を細かく知らないこともある。この時点では引っかかりの域を出なかった。

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03 / 写真と動画
受信:ナガオ / 返信
写真は1枚もありません。
彼が写るのをすごく嫌がるんです。最初の頃に何度か撮ろうとしたら、嫌な顔をされてしまって、それからは控えるようにしています。動画も同じです。
私が一人で写っているものなら、彼が撮ってくれたのが1枚あります。

その写真を見せてもらった。ナガオ氏が自宅のソファに座って、片手にマグカップを持っている。撮影日時のデータは保存されていなかった。彼女に「これはいつ撮ったものですか」と聞くと、「春先だった気がします」と答えた。

· · ·
04 / 共通の知人
受信:ナガオ / 返信
友達同士で会ったことは一度もないです。彼があまり、自分の友達に女性を会わせたがらないので。
私の友達にも、まだ紹介していません。タイミングを逃してしまって。
職場の方とも、お会いしたことはないです。

「一度でいいので、お二人を直接見た人を教えてもらえませんか」と聞いた。ナガオ氏は少し考えてから、こう答えた。

受信:ナガオ / 返信
いま思うと、本当に一人もいないかもしれません。彼が私の家に来るとき、出張帰りに直接来ることが多くて、外で待ち合わせるのも駅の改札じゃなくて、近くの公園とかだったので。

人通りの少ない場所で会い、彼女の家で過ごし、そのまま帰っていく。2年間、第三者の前に二人で立ったことが一度もない、ということになる。

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05 / お店の年代

ハルキ氏とよく行ったという飲食店の名前を、いくつか挙げてもらった。

そのうちの一軒、駅前のイタリアン「N」を調べた。確かに実在する店だ。営業しており、評判もいい。ただ、開店は1年8ヶ月前だった。

このことをナガオ氏に伝えた。

受信:ナガオ / 返信
ああ、そうかもしれません。Nに行き始めたのは、確かにそんなに前ではなかったかも。2年だったような気がしていたんですけど、思い違いだったかもしれません。

他の店についても同様の照会をした。3軒のうち、開店時期と彼女の語る「初めて行った時期」が矛盾するものが2軒あった。そのつど、ナガオ氏は「言われてみると、もう少し最近だったかもしれません」と修正していった。

修正は素直で、自然だった。嘘をついている人間の態度ではなかった。ただ、修正のたびに「2年間の交際」の輪郭が、少しずつ縮んでいくように見えた。

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06 / 連絡手段

ハルキ氏の電話番号を教えてもらった。発信した。

「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」

ナガオ氏に伝えた。

受信:ナガオ / 返信
いつから使われていないんでしょう。最後に通話したのは……、すみません、思い出せないです。電話で話すよりLINEのほうが多くて。

LINEのやりとりのスクリーンショットを、まとめて何枚か送ってもらった。日付の幅は半年分ほど。確かに「ハルキ」との一対一のトークルームで、彼女と相手の発言が交互に並んでいる。

ただ、読んでいて、気になる点がいくつかあった。

まず、発言量の偏りだ。ナガオ氏の側は、出来事の報告や愚痴、その日の食事の写真などを、ある程度の長さで送っている。「ハルキ」側の返信は、ほぼすべてが「うん」「そうだね」「お疲れさま」「了解」のような、数文字の応答に収まっている。固有名詞も、彼女が振った話題の中の言葉を拾い返すかたちでしか出てこない。

次に、リアクションのタイミング。ナガオ氏が送った直後に既読がついて、間をおかずに返信が来た、という流れが、半年分の履歴の中に一度もない。「ハルキ」からの返信は、彼女がスマホを少し置いて、何かをしてから画面を見直したときに、いつの間にか届いている。

「リアルタイムで返事を見たこと、ありますか?」

「……言われてみると、ないかもしれません。気がついたら届いてる感じです。彼、仕事中で手が離せないことが多いので、私もすぐに返事を期待していなくて」

それから、言葉遣い。「ハルキ」側のメッセージには、ナガオ氏自身がトーク内で一度も使っていない言い回しが、ときどき混ざる。「すまんね」「有難う」「ご苦労さま」「承知した」のような、少し古めの表現だ。ナガオ氏に確認すると、「会って話すときは、そんな話し方じゃないんですけど、文字になると、なんでかちょっと変わるんですよね」と答えた。文章のときだけ、口調が古くなる相手、ということになる。

LINE通話およびビデオ通話の発着信履歴は、半年遡って、一件も残っていなかった。

一つ一つは、説明がつかないことではない。口数が少なく、文字を打つのが遅く、年上の親戚の影響で書き言葉だけ少し古く、通話を好まない人——そういう人は、いる。

ただ、そうした「ありえなくはない」要素が、彼に関するほぼすべての項目で、同じ方向に積み重なっている。

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07 / 住所

最後に、ハルキ氏の住所を聞いた。会いに行ってみる、というつもりではなかった。確認できる情報は、できるだけ確認しておきたかった。

ナガオ氏は少し答えに迷ってから、市・町名・番地まで送ってきた。

その住所は、ナガオ氏自身の現住所と、番地まで完全に一致していた。

このことを伝えた。返信には、いつもより時間がかかった。

受信:ナガオ / 返信
言われて、いま気づきました。
彼が「そっち行くね」と言うときは、私の家に来ます。「家に帰るね」と言うときは、私の家から帰っていきます。住所が同じなんて、そんなはずないと思うんですけど、考えてみると、彼の家の中の写真とか、家の話とか、私は一度も聞いたことがないんです。
住所を彼に直接聞いたことは、たぶん一度もありません。さっきお伝えした住所も、いつ覚えたのか、自分でもよくわかりません。

ナガオ氏は混乱しているようには見えなかった。ただ、自分が確かだと思っていたことに、不確かな縁取りがあったことに気づいた、という様子だった。

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08 / 先に住んでいた人

ナガオ氏が現在の家に転居したのは3年前だった。

受信:ナガオ / 返信
ハルキと知り合ったのは、引っ越して落ち着いた頃です。ちょうど3年くらい前になります。

物件の仲介を扱った不動産会社に連絡を取った。当時の担当者は退職していたが、引き継ぎで事情を知る社員と話せた。物件名と契約者の名字を伝えると、すぐに該当の物件は思い出してくれた。

不動産会社・現担当者の発言
あのお部屋ですね。3年と少し前になりますか。前にお住まいだった方が、お一人で亡くなられたんです。少し発見が遅れて、それで賃料を見直して募集していました。ご親族の方が片付けに来てくださったんですが、衣類とか、書類関係は部屋にそのまま残されていたと記憶しています。「処分してくださって構いません」とおっしゃっていたので、軽い清掃のあとで、お貸し出ししました。

下のお名前を伺いたい、と聞いた。

「個人情報になりますので、それは申し上げられないんですが。……珍しいお名前ではなかったと思います」

それ以上は聞き出せなかった。

ナガオ氏に「家に、最初から残されていた物はありますか」と尋ねた。

受信:ナガオ / 返信
棚の奥に、古い手紙の束と、町内会の名簿みたいなものが残っていました。私のものではないのは分かっていたんですけど、捨てるのもなんだか気が引けて、しばらくそのままにしていました。

名簿と手紙について、もう少し詳しく聞いた。ナガオ氏は数日かけて確認し、いくつか答えてくれた。

名簿の住所欄には、ハルキ氏が「育った町」として彼女に話していた地名と同じ町名が、何人か並んで記されていた。彼女自身の出身地でも、勤務先でもない、遠方の町名だった。

手紙の差出人については、こう返ってきた。

受信:ナガオ / 返信
くずし字みたいで読みにくいんですけど、一通だけ、宛名が下のお名前だけで書かれているのがありました。「ハル」までは読めて、その下が、漢字なのかひらがなか分からないんです。「ハルキ」と読める気もするんですけど、別の字にも見えます。自信はないです。
私が彼の名前を最初に聞いたとき、なんとなく耳に馴染んだのは、もしかしてこれを見ていたからかな、と最近思いました。
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09 / シャツと録音

ナガオ氏に「家にある彼のもの」を聞いた。

受信:ナガオ / 返信
シャツが1枚、クローゼットにかかっています。彼が忘れて行ったみたいで。
いつ忘れたのか、はっきりとは覚えていません。気づいたら、ありました。

シャツの写真を送ってもらった。襟の内側についたブランドタグを拡大して確認すると、現行品とは表記が違う。同じブランドの旧ロゴで、検索すると2010年代前半に使われていたものだった。15年ほど前に流通していたシャツということになる。

「古着が好きな人だったんですかね。そう言われると、新品のお洋服を着ているのを、あまり見た記憶がないかもしれません」

それから、別の話の流れで、ナガオ氏が深夜に録音された音声を共有してくれた。彼女のスマホは、就寝中に一定以上の物音を感知すると、自動で短い録音を残す設定にしてあるという。

「半月ほど前です。夜中の2時過ぎに録られていました。私はその時間、寝ています。一人暮らしです」

数秒のファイルだった。寝息のような音、家鳴りのような音、その間に、低い男性の声で何かを発音するような音が一度だけ混じる。言葉として聞き取れない。

「何度か聞いていたら、『おかえり』って言っているように聞こえてきました。気のせいかもしれませんが」

「録音された日のことを覚えていますか」と聞いた。「覚えていないです」とだけ返ってきた。

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10 / 不自然点の整理
確認できること
  • 投稿者ナガオ氏は実在し、当該住所に居住している
  • 当該住所には、3年と少し前まで独居の男性が住んでおり、室内で亡くなっている。親族による片付けの際、衣類や書類の一部が残されたまま貸し出された
  • ナガオ氏が「彼の住所」として伝えてきた番地は、彼女自身の現住所と完全に一致する
確認できないこと
  • ハルキ氏が現在どこかに実在しているかどうか。第三者による目撃、写真、動画、有効な通話記録、SNS上の痕跡はいずれも確認できなかった
  • 前住人の氏名、および「ハルキ」と呼ばれる人物との関係
  • 深夜の録音に混入している声の発生源
気になる点
  • ナガオ氏の「2年間の交際」の細部は、外部情報と照合するたびに、本人の中で素直に短縮・修正されていく。「彼」の存在を裏付ける情報は、すべて彼女の認識・所有物・住居の内側に閉じている
  • ナガオ氏が知っているはずのない遠方の町名が、家に残されていた名簿の住所欄と一致する。同じ家に残されていた手紙の宛名には「ハル」と読める記名があり、シャツのタグも15年前の旧ロゴで、ナガオ氏自身が買った形跡は本人の証言からは出てこない
  • 1ヶ月前、ナガオ氏は家に残されていた古い書類や手紙を処分した。「彼」からの連絡が途絶えたのも、ほぼ同じ時期だ
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11 / 記録を終えるにあたって

管理人がナガオ氏に伝えられたのは、ここまでに照合してきた事実だけだった。

シャツのタグの年代のこと。名簿に並んでいた地名のこと。手紙の宛名の「ハル」のこと。彼の住所と、彼女の住所のこと。書類を処分した時期と、連絡が途絶えた時期が、ほとんど重なっていること。

ナガオ氏は、ひとつひとつに「はい」「ええ、はい」と短く返事をしてくれた。混乱しているふうでもなく、否定するふうでもなかった。彼女がこの2年間に経験してきたことは、本人にとっては紛れもなく事実で、外から並べた事実が、それを上書きするわけでもない。

これ以上、こちらから踏み込むことはできなかった。

最後に届いたナガオ氏のメールを引いておく。

受信:ナガオ / 最後のメール
古い手紙とか、名簿とか、引っ越してから3年もそのままにしていたんです。先月、思い切って処分しました。あれからです、彼の連絡がなくなったのは。
関係はないと思います。たぶん。
もう、連絡は来ないかもしれない、という気がしてきました。
探してほしいとお願いしましたが、もしかしたら、もう探さないほうがいい気もしています。なんとなく、ですけど。

管理人として、いったん家を離れてみてはどうか、と提案した。「考えます」とだけ返事があった。それから一週間、ナガオ氏からの連絡はない。

管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • 賃貸物件で「前住人の遺品が一部残されたまま入居した」経験のある方
  • 交際相手の存在について、第三者からの裏付けがまったく取れなかった事例をご存じの方
  • 居住空間に由来する音声・映像の記録について、専門的な知見をお持ちの方
シャツのタグの写真を、もう一度拡大して見ている。15年前のロゴだ。15年前のナガオ氏は10代後半で、彼女がこの家に来るより、ずっと前のことになる。

「彼」がいつから「いた」のか。3年前からだったのか、それとも、ナガオ氏が来るより前から、ずっとそこに「いた」のか。確かめる方法は、もう、ない。

 

 

 

水色のうさぎ


CASE-058 / 未解決
管理人注記 以下は2026年5月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年5月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はシノダと名乗る30代の女性だった。P地方で個人事業をされているという。文面は整いすぎていた。被害を訴えるメールにしては、表面が静かすぎる印象だった。

投稿者:シノダ / 原文
はじめまして。フリマアプリのアカウントが乗っ取られたみたいで、相談させてください。
私は「Pirca(ピルカ)」というフリマアプリを3年ほど使っています。出品は不要になった家のものを少しずつ、月に2〜3件くらいです。先月から、自分が出品した覚えのない商品が次々と出品されていることに気づきました。古い陶磁器、未開封の御祝儀袋、介護用品など、私が出品するようなものではありません。中には、私自身が一度見たことがあるような気がする品も混じっていて、そこから気になり始めました。
すでに発送されてしまった商品もあるようで、購入者からの評価も付いています。私のアカウント名義で、私のものではない商品が、私の知らない場所で売買されている状態です。
Pirca側にはまだ通報していません。先に、こちらのブログにご相談したくて。「アプリの内部監査でこのような不正は検知されないのか、自分の口座と取引が紐づいているはずなのに、なぜ気づけなかったのか」という観点で調べていただきたいんです。早めにお返事をいただけると助かります。

文面の冷静さに対して、末尾の「早めに」だけが浮いている。本文に急かす具体的事情は書かれていない。

フリマアプリのトラブル相談を本ブログに持ってくる動きも珍しい。通常はアプリ運営への通報が先で、「内部監査」という運営を疑う角度の問題意識は、一般ユーザーからは出にくい。

· · ·
02 / ログイン履歴の確認

返信メールでシノダ氏に、Pircaのログイン履歴ページのスクリーンショットを送ってもらった。フリマアプリのログイン履歴は、一般ユーザー向けには生のIPアドレスまでは表示されない。確認できるのは、ログイン日時、使われた端末(iPhone/Android/PCなど)、OS、おおよその地域情報あたりだ。それでも、乗っ取りの一次調査としては十分な情報が出る。

翌日、画像が届いた。

過去90日間のログインはすべて、同一の端末(彼女のiPhone)から、同じ地域(彼女の居住地域として登録されている市内)の範囲で行われていた。時間帯は朝の7時前後と夜の21時前後に集中している。Pircaは新しい端末からのログインにSMS認証を要求する仕様で、シノダ氏の履歴には新規端末からのログイン認証は一度も発生していない。

乗っ取りではない。本人の端末からの、本人による操作だ。

本来であればここで調査は終わる。だが、気にかかる点があった。シノダ氏はログイン履歴をアプリ内で自分で確認できる立場にあり、新規端末からのログイン認証の通知は彼女のスマートフォンに届くはずだ。それを飛び越えて本ブログに「乗っ取られた」と相談してきている。本人の側で確認すれば一目でわかる事実を、わざわざ外部に持ち込む順序が、ユーザーの自然な動きとずれている。

私はこの段階で、シノダ氏に確認メールを返した。
「ログイン履歴がご本人の端末・地域でのご利用と整合しているようなのですが、ご家族のどなたかがお使いになった可能性はありますでしょうか」

· · ·
03 / 出品商品の偏り

シノダ氏からの返信を待つ間、Pirca上の彼女のアカウントを公開情報の範囲で確認した。過去30日間の出品商品が一覧で見られる。

128件の出品があった。

ラインナップに明確な偏りがあった。古い和食器、未開封の御祝儀袋(中身は抜かれている)、未使用のタオルセット(贈答ラッピングのまま)、介護用品(紙おむつ、ポータブルトイレ)、古い貴金属、薬箱に入れたままの市販薬。一般家庭の不要品ではない。独居高齢者の家から、整理されないまま運び出されたような顔ぶれだった。御祝儀袋には筆書きの宛名がそのまま残っていて、そのひとつには、ここに書けない苗字が読める状態で写っていた。

不自然なのはこれだけではなかった。介護用品の売れ行きが、異常に早い。通常は出品から数週間〜数か月かかる商品が、シノダ氏のアカウントでは平均48時間以内に売れている。購入者を5件確認したが、いずれも取引履歴が当該商品の購入のみ、半年以内に作られた新規アカウントだった。

買い手側にも、何らかの一貫性がある。

· · ·
04 / 沈黙、と一通の返信

確認メールの返信は来なかった——正確には、3日目に1通だけ返信があった。内容は短い。

受信:シノダ / 返信
お手数おかけしています。ログイン状況については引き続き確認してみます。アプリ運営側にも、本人として別途確認を入れる予定です。あと、水色のうさぎの陶器(鼻が欠けているもの)が、まだ出品リストに残っているか確認していただけますか。

最初の質問——「ご家族の方が使った可能性は」——には触れていない。

Pircaで「水色のうさぎ」を探したが、該当商品はなかった。混乱の中で具体物を思い出して問い合わせてきたものだろう、と処理した。この時点で、この一行を本筋の外に置いた。

これ以降のフォローアップに返信はなかった。8日目に送った3通目は、Mailer Daemonのエラーで返ってきた。アドレスが、存在しない。

シノダ氏が最初に書いてきたメールアドレスが、削除されていた。

· · ·
05 / 消えていくシノダ

本ブログの方針として、相談主の身元を勝手に追跡する調査はしない。私が記録できるのは、彼女が私に書いた文面と、その周辺で公開されている情報の変化だけだ。

シノダ氏は最初のメールで、自分の個人事業の屋号と地域(ここでは「P地方の手芸関連事業」とだけ書く)を記していた。屋号で検索すると、半年前のスクリーンショット(Wayback Machine経由)には、事業用SNS、Web名刺サイト、地元商工会の会員一覧ページに、屋号と「シノダ」という名前が残っていた。

現在、これらのページはすべて、彼女の名前と屋号を含む箇所だけが削除されていた。商工会の会員一覧は、更新ログによれば「先月の定例更新」で会員数が一名減っている。SNSは「ユーザーが見つかりません」のエラー画面。Pircaのアカウントも、最初の確認メールを送った週の終わりには退会済みになっていた。

最初のメールに書かれていた取引先(地元の手芸資材卸)に商業的な問い合わせとして連絡を入れたが、「シノダさんという方は存じ上げない」との回答だった。

シノダ氏の存在が、ネット上の通常のルートから消えていた。彼女の自宅を訪ねるのは本ブログの守備範囲ではない。代わりに、彼女が二通のメールで残してくれた手がかりだけを頼りに、調査を続けた。

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06 / 仕入元

出品商品の写真を、地元の遺品整理業者数社に匿名で見せた。回答は3社で揃った。「独居の方の家から、亡くなった直後に運び出されたような状態」。

地元紙のお悔やみ欄と公的な死亡届の動きを、シノダ氏のアカウントの出品時期と並べてみた。過去6か月で、出品が増える時期と地域内の死亡集中時期が4回中4回一致した。死亡から出品までの日数は平均5.3日。親族が遺品整理に着手するより前のタイミングだ。

「葬儀の前」「親族が動く前」に空き家に入れる立場の人物は、限られる。

地元の自治体に独居高齢者の見守り業務について公開資料を請求した。P地方では民生委員が地区ごとに対象世帯を担当している。担当エリアと、シノダ氏のアカウントから売られた品物の推定出処を地図上で重ねると、ほぼ完全に一つの民生委員——ここでは「オオモリ氏」とだけ書く——の担当エリアの内側に収まっていた。

オオモリ氏は60代男性、同地区で20年以上見守り業務を担当している。地域広報紙の最新号に、地区の防災訓練の集合写真が小さく載っていた。中央寄りに立つオオモリ氏は、地区の腕章をした手で、近くの子どもの肩に軽く触れて笑っていた。キャプションは「地域の安心は、顔の見える関係から。20年欠かさず歩いてきた道です」。本文には「親族と疎遠なご高齢の方の最後を、誰よりも近くで見守ってこられた方」「ご自身の手帳には、見守り対象の方ひとりひとりの名前と、その方が好きだったお茶の銘柄まで書き留められている」とあった。

「ひとりひとりの名前と、好きだったお茶の銘柄」。その手帳が、私の中で別の意味を持った。

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07 / 別名義のアカウント

なお、Pircaは退会済みアカウントについても、退会から90日間は過去の出品履歴と商品写真をキャッシュとして第三者が閲覧できる仕様になっている。シノダ氏のアカウント退会が判明したあとも、私はこの期間内に出品履歴の遡及照合を続けることができた。

シノダ氏のアカウントと出品傾向が酷似する別アカウントを探した。商品ジャンルの分布、商品写真の背景、出品時間帯の癖などを照合した。

少なくとも3つの別名義アカウントが見つかった。いずれも違う名前、違う地域設定、違うプロフィール写真。だが、商品の背景に映り込んでいる和室の畳の擦れパターンが、シノダ氏のアカウントで使われていた写真と一致するものが3枚あった。

別人の名義で運営されているが、同じ家屋の同じ部屋で撮影されたとしか思えない商品写真が、3つのアカウントに分散して出品されている。出品の管理が、シノダ氏のアカウント単体で完結しているとは考えにくい状況だった。

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08 / 水色のうさぎ

ここまでの調査を踏まえて、シノダ氏の二通のメールを読み返した。

文面の整いすぎ。冷静な本文と切迫した末尾。「内部監査」という業務側に近い言い回し。Pircaに先に通報せず本ブログを経由しようとした不自然さ。これらは、シノダ氏が指示された文面に従って相談を出した、と仮定するとすべて整合する。組織側が用意した定型に、本人が書き加えた末尾の一行——「早めに」——だけが、彼女自身の温度を持っていた。

そして二通目のメール。

「水色のうさぎの陶器(鼻が欠けているもの)が、まだ出品リストに残っているか確認していただけますか」

定型の文面の中で、ここだけが浮いている。文体が違う。「鼻が欠けている」という具体性。確認してほしいと書いてあるが、該当する商品はPircaの出品リストにない。出品リストにないことを、彼女は知っていた可能性が高い。

なら、なぜこの一行を書いたのか。

誰かへのメッセージだったのかもしれない。出品確認の依頼を装った、別の宛先への合図。
捌いていた品の中に、彼女が個人的に知っている誰かの所有物が混じっていて、それに気づいた合図だったのかもしれない。
あるいは、本当に出品リストに陶器が出ているかを確かめたいだけの問い合わせだったのかもしれない。

本人からの確認は取れない。

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09 / 並べておく

ここまでで分かったことを、事実として並べておく。シノダ氏のフリマアカウントの出品操作は、本人の端末・本人の居住地域からのもの。出品商品の傾向は、地元の独居高齢者の家から運び出されたものと一致し、特定の民生委員(オオモリ氏)の担当エリアと地理的に重なる。同じ家屋で撮影されたとしか思えない商品写真が、別名義の複数アカウントに分散している。シノダ氏は最初のメールで「中には、私自身が一度見たことがあるような気がする品も混じっていて、そこから気になり始めました」と書いていた。二通目のメールの末尾には、文体が他の部分と違う「水色のうさぎ」の一行があった。Pircaの出品リストに該当する陶器はなかった。私が最初の確認メールを送ったあと、シノダ氏のオンライン上の痕跡——メールアドレス、SNS、商工会会員ページ、Pircaアカウント——は、数日以内に段階的に削除された。これらの事実が一本の線でつながっているのか、別々の偶然なのか、シノダ氏が何に気づいたのか、二通目の一行に意図があったのか、本人からの確認は取れない。彼女に連絡を取る手段は、すでにない。

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10 / 不自然点の整理
確認できること
  • 出品操作はすべて本人の端末・本人の居住地域からのログインによるものであり、同じ家屋で撮影された商品写真が別名義の複数アカウントに分散していること
  • 出品商品の傾向は、独居高齢者の家から葬儀前に持ち出された品物のものと一致し、地元の特定の民生委員(オオモリ氏)の担当エリアと地理的に重なること
  • シノダ氏のメールアドレス、SNS、商工会会員ページ、Pircaアカウントが、確認メールの送信後に段階的に削除されたこと
確認できないこと
  • シノダ氏の現在の所在
  • 「水色のうさぎ」の現物の所在
  • 組織の規模と上流の構造、買い手側の組織性の有無
気になる点
  • 「Pircaに通報する前に本ブログに相談したい」「内部監査で検知されないのか」など、相談メールの組み立てが一般ユーザーの問題意識とは異なる、運営業務側に近い文脈を含んでいること
  • 本文は組織から渡された定型文と推測される一方、最初のメール末尾の「早めに」と二通目末尾の「水色のうさぎ」の一行だけが、本人の意志による加筆と読めること
  • シノダ氏のオンライン痕跡の削除が始まった時期が、管理人による確認メール送信後の数日以内に集中していること
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11 / 記録を終えるにあたって

本記事は、相談主との連絡が途絶えたまま執筆している。本ブログの方針として、投稿者の身元を勝手に追跡する調査はしない。私が記録できるのは、彼女が私に書いた二通のメールと、外から見える周辺情報の変化だけだ。

最後に二つ、書き残しておく。

一つ目。二通目に置かれていた一行——水色のうさぎ、鼻の欠けたもの——を、私はその時点で意味のあるサインとして拾えなかった。その一行に意図があったかどうかも含めて、判断するには調査がもう少し進む時間が必要だった。調査が進んだ頃には、彼女のメールアドレスは存在しなくなっていた。

二つ目。私が最初の確認メール(「ログイン履歴がご本人の端末・地域でのご利用と整合している」旨)を返した日と、彼女のオンライン痕跡が段階的に消え始めた日付は、数日の幅に収まっている。私のメールの内容が組織側に共有された可能性を、私はいま否定できない。

私が彼女にできたことは、たぶん、もう少しあった。私がしてしまったことも、あったのかもしれない。

管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • P地方近辺で、独居の親族の遺品整理の直後に家財の所在が不明になった経験のある方
  • 地域の見守り業務の内部事情をご存じの方
  • フリマアプリ「Pirca」(仮称)で、上記のような商品傾向を持つ別名義アカウントについて情報をお持ちの方
なお、本記事の公開と同時に、Pirca運営側には別経路で同種の問題を匿名で報告した。シノダ氏のアカウントは既に退会済みで、運営側が遡及できる範囲は限られているだろう。組織はおそらく、別の窓口を立てて、別の地区で、同じことを続けるだろう。それを止める力は、私にはない。

それでも、ひとつだけ。彼女が私に書き残してくれた二通のメールを、こうしてここに記録しておく。これだけが、私にできることだった。

 

 

変な絵

変な絵

Amazon

 

紛れていた自分


CASE-057 / 未解決
管理人注記 以下は2026年1月に本ブログへ寄せられた投稿メールおよび補足資料をもとに、管理人が追加調査を行いまとめたものです。
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
01 / 最初の投稿
2026年1月 / 本ブログへの投稿メール

投稿者はスガワラと名乗る20代後半の女性だ。都心の会社に勤め、3年前にこの町へ転居してきたとある。文面は事務的だった。短い、というよりも、必要なこと以外は書かないようにしている、という印象だった。

投稿者:スガワラ / 原文
はじめまして。気味の悪いものを見てしまったので、相談させてください。
先週の土曜日の朝、自宅前の集積所にゴミを出しに行きました。強風で破れた袋が一つあり、中身が散らばっていました。拾い集めようとして、それが大量の写真の束だと気付きました。風が強かったので、もっと多くの枚数が別の方向に飛ばされていたと思います。私がその場で集めて持ち帰れたのは数十枚です。
束のうち、何枚かに私自身が写っていました。撮影地は通勤に使う駅のホーム、近所のスーパーマーケットの入口、行きつけの定食屋の前。私がよく行く場所です。撮影者がいる構図でした。
そのうちの一枚にプリントの刻印日が残っていて、私が大学生だった頃の日付でした。当時の私はこの町ではなく、別の市に住んでいました。
写真の束は、その家のゴミだったのだと思います。誰の家かは分かりません。気味が悪いので、何枚か見ていただけないでしょうか。

短い投稿だった。「気味が悪い」と二度書いている以外には、感情の起伏が文面に出ていない。それなのに、写真は捨てずに手元に置いている。返信を打ちながら、その置き方が少し気になった。

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02 / 写真

スガワラ氏から写真を借り受けた。回収できたのは47枚。彼女が立ち去ったあとに収集車が持っていった分や、強風で別方向へ飛ばされた分も含めれば、もとの袋の中身はその数倍は下らないと思われる。

紙はL判の光沢紙、フチなし。ただし、市販のプリントサービスにつきもののロゴや、裏面の整理表示がない。家庭用フォト用紙への自家プリントだ。プリントの刻印日は最も古いものが2014年4月、最も新しいものが2024年11月。10年以上にわたって蓄積された束だった。

撮影機材は途中で複数回変わっている。前半はコンパクトデジタルカメラ特有の輪郭の柔らかさが目立つ写真、中盤からデジタル一眼の被写界深度の浅さが出始め、後半は明らかにスマートフォンで撮られたものが混じる。にもかかわらず、構図のクセは10年を通じてほぼ均一だった。被写体に対して水平、腰よりやや下のアングル、被写体は画面の中央左寄り、背景は半分以上が建物の壁面か看板。撮影者の好みというより、何かの手引きをなぞっているような均一性だ。

写真の裏面の隅に、鉛筆で4桁の整理番号が振られているものが47枚中12枚あった。番号には連続性がなく、欠番が多い。袋全体では、もっと多くの番号が動いていたと考えるのが自然だった。

紙の状態は均一だった。長期間にわたって、同じ環境(湿度・温度・光の当たり方)で保管されていたことが分かる。撮影者の家のどこか一箇所に、まとめて置かれていたのだろう。

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03 / 撮影地点

スガワラ氏に立ち会ってもらい、撮影地点を一つずつ照合した。

47枚のうち、彼女が「これは確かに自分だ」と即答したのは18枚。撮影地点は通勤駅、近所のスーパー、定食屋など、現在の生活圏に集中していた。日付は転居後の3年間に収まっている。

別の12枚は、彼女が大学時代を過ごした隣県の街で撮られたものだった。10年以上前の日付。当時の通学経路や行きつけの店が写っていることが分かった。学生時代の自分であることに間違いはない、と彼女は言った。

問題は残りの17枚だった。

受信:スガワラ / 返信メール
残りの写真ですが、一部、自分かどうか自信が持てません。後ろ姿のものは特に分からないです。何枚かは服装に違和感があります。私はあのカーディガンを持っていません。あのバッグも持っていません。髪型は近いですが、襟足の流れ方が少し違うように見えます。
これは私かもしれませんが、私ではないかもしれません。

最後に「これは私だと思っていたけれど、自信がなくなってきた」とあった。

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04 / 数

写真の束を整理しているうちに、もう一つの事実に気付いた。

被写体は、スガワラ氏一人ではなかった。

47枚を被写体ごとに分けると、明確に別人と判別できる女性が、少なくとも20名以上いた。20代から30代の若い女性。年代も服装の流行も、10年以上の幅で散らばっている。

共通しているのは、顔ではなかった。

ストレートのセミロング、もしくはゆるく巻いたミディアム。標準的な体型。落ち着いた色合いのカーディガンやコート、控えめなパンプス、無地に近いトートバッグ。誰が誰だと言われればそうかと納得するが、特定の誰かを思い浮かべる手がかりにはならない。型としては似ているが、顔は全員違う。

スガワラ氏もこの型に当てはまっていた。

整理を終えた段階で、その旨を彼女に伝えた。返信は二日遅れた。

受信:スガワラ / 返信メール
自分が、誰にでも置き換えられる「型」だったということのほうが、写真が混じっていたことよりも重く感じます。私を撮ったわけじゃない、と分かったほうが楽になるはずなのに、なぜか逆でした。

その日、彼女からの返信はそれ一通だけだった。

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05 / 呼びかけ

写真の中で繰り返し映り込んでいる小道具がいくつかあった。同じ柄の傘、同じ模様のスカーフ、同じ持ち手のトートバッグ。被写体が複数枚にまたがって写っていることが分かる程度の頻度で、それらが反復している。

ローカルなSNS掲示板に、伏せ字込みで投稿した。「○○県内の集積所で発見されたゴミ袋の中から、不特定多数の女性の写真が出てきました。下記の特徴の服飾品に心当たりがある方はご連絡ください」。

10日ほどして、応答があった。

応答者はマエダと名乗る20代後半の女性。スガワラ氏とは面識がない。住所は隣県の市で、スガワラ氏の住む町からは電車で40分ほど離れている。

最初の返信は短かった。

受信:マエダ / 返信メール(1通目)
写真の中に、私が知っているバッグが映っているように見えました。それだけお伝えしておきます。これ以上、こちらから何かを言うつもりはありません。

詳細を伺いたい旨と、伏せたい部分は伏せていただいて構わない旨を返信した。3日後、もう少し長い返信が届いた。

受信:マエダ / 返信メール(2通目)
3年前のことです。当時暮らしていたアパート近くで、似たような形で自分の写った写真の束を見ました。私の場合は、古紙の集団回収を請け負っていた業者の方が、選別中に見つけて連絡をくれた、という形でした。
撮られていたのは、私の通学路と、当時アルバイトをしていたカフェの周辺です。撮影者がいる構図で、明らかに私を狙ったものとしか思えませんでした。
警察にも相談しましたが、出所をたどる手立てがなく、調査は止まりました。私自身も自分で半年ほど動きましたが、何も分かりませんでした。

やり取りはさらに数往復続いた。一週間ほど経って届いた最後のメールに、彼女がずっと書こうかどうか迷っていたらしい一段が、文末にひっそりと添えられていた。

受信:マエダ / 返信メール(最終)
一つだけ気になったことがあります。私が映っている写真の束だと思っていたのですが、よく見ると、私ではない人が写っている写真が何枚か混じっていました。当時一緒に暮らしていた友人でした。
同じ部屋で撮られたものではありません。街中で、彼女一人で歩いているところを別の構図で撮られたものです。私と彼女は、外を一緒に出歩くタイプではありませんでしたから、別々の機会に撮影されたものだと思います。
その友人は、数年前に亡くなりました。
これ以上のことは、すみません、触れたくありません。

マエダ氏との連絡はこの返信を最後に途絶えた。

スガワラ氏のゴミ袋は集積所で見つかり、マエダ氏の写真は古紙の集団回収から見つかった。二つの市は40キロ以上離れている。「撮影者の家のゴミ」と単純にまとめるには、距離が遠かった。

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06 / 他の中身

ゴミ袋からは写真以外の品物も出ていた。スガワラ氏が拾い集めた範囲では以下のものがあった。

医療系の薬の空きシートが複数。錠剤のシートだけが残されており、患者名や薬剤名のラベルが付いた袋や封筒は一切なかった。空きシートのうち数枚は、薬剤名が印字されている側だけが切り落とされていた。複数のシートで切り取りの位置と寸法が一致しており、手で破ったというより、定規を当ててカッターで落としたような直線だった。

はがきが3枚。いずれも宛先と差出人の欄がカッターできれいに切り取られていた。切られた箇所の寸法を計ると、3枚とも縦12mm・横40mmの矩形で、誤差は1mm未満。テンプレートを当てて切ったとしか考えられない正確さだった。本文は残っていたが、固有名詞は一切登場しない。「お元気ですか」「先日はありがとうございました」といった定型の挨拶だけだ。

ノートの切れ端が一枚。「11/3」「11/17」「12/1」と、二週間おきに並んだ日付の数字。下に小さく「印×」「印○」と振られていた。

不要なものを大慌てで捨てた、という袋ではなかった。袋の外側にも、内側のどこにも、出所を示す情報は残っていない。

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07 / 出所

集積所周辺を何度か訪ねた。

ここは住宅街の角にある共同集積所で、半径100メートル以内のおよそ50世帯が利用している。防犯カメラは設置されていない。数年前に設置の議論があったが、住民の中に「監視されるのは嫌だ」という声があって流れた、と自治会の担当者から聞いた。

聞き込みの中で「あの家かもしれない」という候補は三軒挙がった。いずれも独居、もしくは高齢夫婦の世帯で、近年に家族の出入りがあった、施設入所があった、空き家になった、といった事情が語られた。だが、どの家にも決定打となる情報はなかった。

訪問先の一軒で、応対した70代の女性に「これ以上は詮索しないほうがいい」と、やや強い口調で言われた。一度、玄関の外、隣の家のほうへ視線を流してから、戸を閉めた。理由は聞かなかった。聞ける雰囲気でもなかった。

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08 / 不自然点の整理
確認できたこと
  • 47枚は10年以上にわたる蓄積で、撮影機材は複数回変わっているのに、構図のクセは10年を通じて均一である
  • 被写体は少なくとも20名以上の若い女性で、顔は全員違うが、髪型・体型・服装の傾向(「型」)が共通している
  • 同じ袋に入っていた写真以外の品物は、個人特定情報だけが均一な寸法で切り取られていた
確認できないこと
  • ゴミ袋の出所
  • 撮影者が一人なのか複数なのか、個人の行為なのか組織的な行為なのか
  • 写真の中の17枚の被写体が、スガワラ氏本人なのか別人なのか
気になる点
  • 撮影者が「型」で被写体を選んでいたとすれば、特定の個人を探していたとは考えにくい
  • スガワラ氏のゴミ袋とマエダ氏の古紙束は、40キロ以上離れた地域で発見されている。別々の家からそれぞれ「同じ性質の束」が出てきたことになる
  • ノートの日付のうち、○印が振られた日付の複数が、47枚の写真の刻印日と一致した。×印の日付に撮影された写真は、回収できた47枚の中にはなかった
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09 / 記録を終えるにあたって

調査を打ち切ってから3週間後、スガワラ氏から連絡があった。

自宅の郵便受けに、差出人の記載がない封書が届いていたという。中には写真が1枚と、A6サイズのメモが一枚。

写真は10年以上前のもので、撮影地は彼女が学生時代を過ごした街の駅前だった。確かに自分が写っているように見える、と彼女は言った。ただし、肩から下げているバッグは持っていたことのないものだ、とも言った。

メモにはこう書かれていた。

探していたのは、あなたではないのかもしれません

差出人不明。消印は、彼女が学生時代を過ごした街の郵便局だった。

管理人注 / 追加情報の募集 本記事に関する追加情報をお持ちの方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。
  • 不特定多数の女性が映る写真群が、集積所・古紙回収業者経由などで発見された経験のある方
  • ご自身、またはご家族・ご友人が「自分が映った身に覚えのない写真」を受け取った経験のある方
  • 10年以上にわたって、複数の女性を同じ「型」で撮影し続けた事例について、心当たりのある方
スガワラ氏が学生時代を過ごした街と、現在住む町。マエダ氏が住んでいた市と、その古紙が回収されていた区。地図に四点を打って線で結んでも、何かのかたちにはならない。ただ、結ばれていないわけでもない。

 

 

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