
CASE-056 / 未解決
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
投稿者はカネコと名乗る40代男性だ。風景写真を趣味にしていて、市内の通勤路を毎週歩いては撮影記録を残しているという。文面は落ち着いていたが、件名に「宗教団体?」とだけあって、本文を開く前に少し身構えた。
以下、原文をほぼそのまま掲載する。
添付の写真は3枚あった。フェンス越しに撮影したもので、被写体までの距離があり、女性たちの顔は判別できない。ただ、白い前掛けの形と整列の様子は、確かに「儀礼」と呼びたくなる種類のものだった。
私がまず気になったのは、北西の一角に金属の器を運んでは持ち帰る、という所作だ。供物であれば置いていく。回収して持ち帰るというのは、献納とも回向とも違う。
宗教団体ではないか、というカネコ氏の仮説を、まず確認しておく必要があった。
最初の投稿には所在地の記載がなかったため、カネコ氏が報告してくれた特徴——「白い前掛けの高齢女性5名のみ」「毎週日曜早朝の整列した出入り」「合鍵による閉鎖敷地への立ち入り」「年に一度、3月中旬の集まり」——に合致する団体がないか、県内全域を対象に照合した。文化庁の宗教法人名簿、および県・市の宗教法人台帳に、活動形態の備考欄でこれらに近い記述を持つ法人は見つからなかった。
続いて、登録のない民間の信仰集団に当たりをつけるため、地域の民俗資料を当たった。県の文化財課が刊行する『県内の年中行事』、市の郷土史編纂室がまとめた『信仰と暮らし』、近隣自治体の同種の報告書。いずれにも、3月14日付近に高齢女性のみで行われる小規模な集まりの記述はない。県内の新興宗教動向を扱う研究者の論文を二本読んだが、該当する集団の言及はなかった。
これは決定打にならない。宗教法人として登録していない非公式な信仰集団は、調べる手段が限られる。所在地を伏せたカネコ氏の慎重さは、調査者としては正しかったが、確認する手がかりが少なくなる方向にも働いた。
返信は翌日に届いた。市内の地区名と通り名だけが書かれていた。
法務局でその地区の登記情報を取得した。該当する空き地は1筆だった。所有権は2003年から「相続関係不明」として登記が止まっており、所有権紛争で凍結されている。
過去の登記簿を遡ると、1972年から1985年までは「学校法人サクラ学園」名義になっていた。サクラ学園で検索すると、現存する学校法人ではなく、1985年3月に閉園した私立サクラ幼稚園の運営母体だった。閉園理由は、当時の自治体公報に「経営者による補助金不正受給」と記載されている。
宗教団体の集会地ではなかった。閉園した私立幼稚園の跡地で、女性たちは元の園関係者である可能性が高い。カネコ氏に伝えた。
勘違いとは限らない、と返信した。だが、その時点ではまだ根拠は薄かった。
女性たちの服装について追加で確認した。
胸当てつき、肩でクロスする紐。保育士のエプロンの典型的な形だった。
地域の郷土資料室に問い合わせたところ、サクラ幼稚園の最終年度の卒園アルバムが寄贈されていた。集合写真の中の保育士たちは、確かに同じ形の白い前掛けをつけていた。記載された6名の保育士のうち、調べがついた範囲では現在も健在なのは5名。年齢は70代後半から80代。カネコ氏が見ている5名と、人数が一致した。
宗教団体ではなく、元保育士たち。儀礼に見えていたのは、長年の同僚で、長年同じ動作を繰り返してきた、というだけの話で説明がつくはずだった。
ただ二点気になっていた。集まりが3月14日に行われていること——卒園式は3月18日、閉園は3月20日で、いずれともずれている。それと、北西の一角に器を運んでは持ち帰る所作だった。
郷土資料室で、サクラ幼稚園の園庭設計図のコピーが見つかった。閉園時に教育委員会へ提出された施設図面の一部だ。
カネコ氏に花壇の配置を写真に収めてもらい、設計図と重ね合わせた。驚くほど、よく合っていた。
園舎北側の砂場、東側のブランコ、南側の花壇、中央の体操場。撤去された遊具はもうないが、女性たちの花壇は、それらの跡地を避けるように、しかし元の園庭の動線をなぞるように、植え分けられている。40年前の園庭設計図を、現在の花壇として再現している。
整然と動いていた女性たちの姿は、宗教の参道行列ではなく、保育士が園児を引率するときの動きだったのかもしれない。長年の身体記憶。
ここまで来て、カネコ氏の「勘違い」説は強くなった。私もそう思いかけた。ただ、設計図と重ねていて、一箇所だけ説明のつかない場所があった。
北西の角。
設計図上、そこには鉄棒があった。2m×2mほどの区画が、安全のために舗装されていた。
現在の花壇は、その2m×2mの正方形だけを、不自然に避けている。周囲には植栽が密に並んでいるのに、その正方形の中だけは土がむき出しで、何も植わっていない。カネコ氏の写真でも、植え分けの「リズム」がその一画だけで途切れている。
設計図の他の遊具跡——砂場、ブランコ、滑り台——には、女性たちは普通に花を植えていた。鉄棒の跡だけが、避けられている。
そしてカネコ氏が報告していた「金属の器を運んでは持ち帰る」北西の一角。それが、この2m×2mと一致する。避けながら、何かを置いて、回収する。何を、何のために。
教育委員会に問い合わせた。鉄棒は閉園とほぼ同時、1985年4月のうちに撤去されている。閉園後の遊具撤去としては早い。普通は土地の処分が決まるまで残置されるか、業者に一括で頼まれる。鉄棒だけが個別に、急いで撤去されていた。
3月14日という日付に戻る。卒園式は3月18日、閉園発表は3月20日。3月14日には、何があったのか。
この頃にはカネコ氏も、毎週日曜の早朝の散策コースに敷地の脇の道を組み込むようになっていた。撮影は止めて、近所に暮らす散歩者の体で女性たちが帰っていく時間帯に通りかかる。何度か顔を合わせるうちに、軽い会釈を交わすようになっていった。声をかけても、4名は黙礼するだけで通り過ぎていく。指示役らしい年配の女性は、目を合わせもしなかった。
ただ、最年少らしい一人——後にオカダ氏と判明する人物——だけが、ときどき足を止めて短い言葉を返してくれた。私はカネコ氏に提案して、近所の住民として偶然を装って改めて声をかけてもらった。
オカダ氏はそこまで言うと、少し笑って立ち去ったという。
「卒園式のちょっと前」——3月18日より前、3月14日。卒園式は子どもが園を離れる日であり、離れる前のほうが「いる感じがする」のは当たり前の言い回しだ。だが、その「ちょっと前」が他のどの日でもなく毎年3月14日であることの理由は、これだけでは分からない。
地元紙の縮刷版を、市立図書館で確認した。1985年3月の地方版。3月15日(金)の朝刊に、三段見出しの小さな記事が一本あった。
続報はない。3月16日、17日、18日、19日、20日。連続して紙面を確認したが、サクラ幼稚園の名前が出てくる記事はなかった。そして4月7日(日)の朝刊に、別の三段記事が出る。
3月14日の事故記事の続報がないまま、3月20日に閉園が発表され、4月7日にようやく「補助金不正のため」の閉園と報じられている。事故と閉園は、無関係だったのか。
自治体に保管されているサクラ幼稚園の最終年度の決算書を、情報公開請求で取り寄せた。
補助金不正受給の額は、58万円。これだけだと、閉園に追い込まれる規模ではない。当時の私立幼稚園の運転資金は年間数千万円が標準で、58万円は見つかっても返還と指導で済む。
決算書の事業外支出を確認した。「示談金」名目で、500万円の支出が計上されていた。支払先は黒塗り。日付は1985年3月末。
補助金不正の10倍弱の額が、不正発覚と同じ時期に「示談金」として支出されている。当時の園長(現在は故人)が、補助金不正と示談金のいずれにどう関与したのかは、決算書からは読み取れない。
カネコ氏に、もう一度オカダ氏に会えないかと頼んだ。直接の取材は本来管理人が行うべきだが、オカダ氏は近所の人間が雑談でかけた言葉にしか応えない。私が出向くと、おそらく口を閉ざす。倫理的にぎりぎりの判断だが、カネコ氏に協力を依頼した。
返信は2週間後に届いた。
オカダ氏が園庭にいなかったこと。園長の私用で外に出されていたこと。「あの子の手が届くより先に止められた」という言い方。事故当日、職員配置に欠陥があった。そしてオカダ氏は、それを40年間、自分の中で抱え続けている。
カネコ氏のメールには、もう一行あった。
「46」が何の数字かは、結局確認できなかった。手帳の管理番号、何かの順番、別の意味。複数の解釈があり得る。
ただ、施設職員の話としてカネコ氏が後に伝えてきた情報——市内のある長期療養施設に現在も入所している、家族のない女性が、「3月の中旬になると少し落ち着かなくなる」——と並べたとき、もっとも自然に重なる解釈は、ひとつだった。
- 公式の閉園理由は「経営者による補助金不正受給」(58万円)。一方、決算書には別途「示談金」名目500万円の支出が黒塗りで計上されている
- 1985年3月14日に「園児が救急搬送」の地元紙記事があり、3月20日の閉園まで続報がない
- 元保育士5名が現在も毎週日曜早朝、当時の園庭設計図と一致する花壇を維持。集まりは毎年3月14日に行われている
- 「示談金」500万円の支払先と、3月14日の事故との因果関係
- オカダ氏が当日、園長指示で園外に出されていたことが事故発生にどう影響したか
- 被害を受けた園児の特定情報(意図的に追跡を控えている)
- 北西2m×2mの鉄棒跡だけが閉園直後に個別撤去され、現在の花壇でも意図的に避けられていること
- オカダ氏の手帳の余白に書かれた「46」
- 「卒園式のちょっと前のほうが、あの子たちが、ちゃんと、いる感じがする」というオカダ氏の発言
カネコ氏の最初のメールには、「宗教団体ではないかと思います」と書かれていた。私はそれを「観察者の勘違い」とは思わなかった。あの女性たちの動作には、確かに儀礼の形があった。整列して入退する歩き方、無言、年に一度の特定日の集まり、避けられた一画、運ばれては持ち帰られる金属の器。これらは、どの宗教にも属さない儀礼だった。
宗教ではない。だが儀礼ではある。40年間、語らずに繰り返された動作が、語ることの代わりになっている。
オカダ氏が運んでいる金属の器を、カネコ氏は最後の取材で近づいて見た。器ではなかった。動物の形をした、小さな、少し錆びの浮いた金属の玩具だった。
「これは何ですか」と聞いたカネコ氏に、オカダ氏は微笑んで「亡くなった母の形見」と答えたという。私は念のため、自治会の名簿と当時の戸籍関連の手がかりから確認した。オカダ氏の母は別の職業に就いていた人で、すでに30年以上前に亡くなっている。当時の写真や記録の中に、この玩具に類するものは見当たらない。母の形見が、なぜ、サクラ幼稚園跡地の北西の一角に毎週運ばれているのか。
オカダ氏は、嘘をついていた。
- 1985年に閉園した私立サクラ幼稚園に関する情報をお持ちの方
- 当時の園関係者またはご家族からの伝聞をお持ちの方
- 閉鎖された施設の跡地で長期にわたり整備活動を続ける関係者を見かけた経験のある方
鉄棒は、もうない。それでも、避けられている。












