
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
投稿者はハセガワと名乗る30代の男性だ。文面は簡潔で、技術的な用語を使い慣れている印象を受けた。ただし、後半になるにつれて文が短くなっていた。
以下、原文をほぼそのまま掲載する。
「kk_bridge.exe」。kkは祖父のイニシャルだろうか。bridgeは「橋」。何と何を繋ぐ橋なのかは、この時点では分からなかった。
ハセガワ氏が「さておき」と流した起動ログのほうが気になった。2025年11月——祖父の死の二ヶ月後に、誰かがこの接続ツールを実行している。USBは遺言書の封筒に入っていた。封筒を開けた人間が、ハセガワ氏の前にもう一人いたことになる。
文面に恐怖の色はなかった。困惑に近い。何を怖がればいいのかが分かっていない段階の文章だと感じた。ただ、子どもの頃の思い出を冒頭に書いている。祖父を疑っているわけではない。だから先に、祖父がどういう人だったかを伝えておきたかったのだろう。
ハセガワ氏に管理画面のスクリーンショットを依頼した。三枚送られてきた。列のヘッダー部分、データの先頭付近、末尾付近。以下、スクリーンショットから読み取れる内容を整理する。
データベースの列構成は以下の通りだった。
ID(個体管理番号)/ Batch(ロット)/ Date / Temp(温度)/ O2(酸素濃度)/ Nut(栄養注入量)/ BPM / Weight / Growth(成長率)/ Status / Harvest / Dest / VW / Σ
最後の列名が「Σ」——ギリシャ文字のシグマ——になっている。大半のセルが空欄で、ごくまれにアルファベットと数字の組み合わせが記入されている。スクリーンショットに写っている範囲で値が入っていたのは三つ。うち二つは意味の取れない英数字の羅列だったが、一つだけ「H-compat」と読めるものがあった。この列だけ、他と性質が違うように見えた。
ハセガワ氏のコメントが添えられていた。
ネモ船長。海底二万里。海洋学者の祖父にはよく似合うコードネームだ。
ただ、一点だけ引っかかった。Nemoはラテン語で「誰でもない」を意味する。ヴェルヌがその名前を選んだのも、その意味を踏まえてのことだ。個体に名前ではなく番号だけを振るプロジェクトの名称としては、別の響きが聞こえる。
この時点では、まだデータの中身を精査できていなかった。ハセガワ氏の推測通り、養殖記録であれば特に不審な点はない。問題は「死後も動いているサーバ」のほうだ。
スクリーンショットのデータを読み解くために、以前から資料の検証を依頼している知人に協力を仰いだ。生物系の研究機関に勤務経験があり、データベースの読み方に慣れている人物だ。
二日後、返答が来た。
「BPMの列を見てほしい。数値が60から80の範囲に集中している」
念のため、自分でも確認した。スクリーンショットに写っている範囲で、BPM列の数値を拾った。62、74、68、71、65、79、70。確かに、すべて60〜80の範囲に収まっている。
協力者の指摘はこうだった。「淡水魚の心拍数は種によるが、一般的には20〜40bpm。60〜80は範囲外だ」
ただし、これだけで異常とは言い切れない。BPMが心拍数を意味するとは限らない。ポンプの脈動回数を記録しているのかもしれないし、酸素供給装置のサイクル数かもしれない。養殖設備のパラメータに「BPM」という略称を独自に使う研究者がいても、不思議ではない。
協力者も同様の留保を付けていた。「一つの列だけでは判断できない。他のパラメータと突き合わせる必要がある」
ハセガワ氏に確認した。「BPMという列にお心当たりはありますか」。
聞いたことがない。家族の誰も、祖父が何を計っていたのか知らない。
協力者に、BPM以外の列も含めた全体的な分析を依頼した。返答は三日後に届いた。前回より長く、慎重な書き方だった。
まず、Temp(温度)列。数値がほぼ全行にわたって36.0〜37.0℃の範囲に収まっていた。
淡水魚の適正水温は種によって異なるが、多くは15〜25℃程度だ。冷水魚なら10℃以下、熱帯魚でも28〜30℃が上限にあたる。36℃を超える水温で飼育できる淡水魚は、一般的には存在しない。
これも単体であれば、説明はつく。培養液の温度を記録しているなら、微生物培養では37℃前後は標準的な設定温度だ。魚卵の孵化条件を研究していた可能性もある。
協力者が問題にしたのは、BPMとTempの「組み合わせ」だった。
「BPMが60〜80で、Tempが36〜37℃。この二つが同じ行の中に並んでいる。片方だけなら別の説明がつく。だが両方が揃うと、選択肢が狭まる」
そして三点目。Weight列の数値と、Growth列の増加カーブ。協力者が他のデータセットと照合したところ、魚体の成長曲線とは形状が異なっていた。魚の成長はS字カーブを描くが、このデータの増加パターンは初期に急峻で、途中からプラトーに入る。むしろ、生体組織の培養——体外で組織片を栄養液中で増殖させる工程——における重量増加のパターンに近似していた。
「一つずつ見ればどれも別の解釈ができる。だが三つ揃うと、一番自然な解釈は一つしかない」
協力者はそこで一行空けて、こう書いた。
「体温域で管理され、ヒトの心拍に近いBPMを記録し、組織培養に類似した成長曲線を持つ個体群。これは魚ではないと思う」
別のもの。その時点では、それ以上の特定を避けた。
調査と並行して、ハセガワ氏に祖父の「研究室」だった離れの様子を確認してもらった。
電源が入ったままの容器。濁った液体。室温の異常な高さ。ハセガワ氏はこれを「放置された水槽」として描写している。そう見えたのだろう。水産学者の作業場に水槽があり、フィルターが回っている。それ以上を想像する理由が、ハセガワ氏にはない。
祖母の「お魚がかわいそうだから」は、亡くなった夫の研究室を守りたい気持ちだと読める。だが、翌日の「中、見た?」は、守りたいものの性質が違う。研究室を守っているのではなく、見たものを確認している。
祖母は何を知っているのか。あるいは、何を知らないまま守っているのか。
ハセガワ氏から祖父の経歴をもう少し聞き、論文データベースで検索をかけた。
祖父——ハセガワ教授は、国立の水産研究機関に30年以上勤務し、淡水魚の養殖技術と繁殖制御を専門としていた。論文は60本以上。うち15本ほどに、共著者として「クドウ・S」の名前がある。
クドウは同じ研究機関に所属していた時期があり、祖父より10歳ほど年下のようだ。共著の時期は1990年代後半から2010年代前半まで。その後、クドウの名前は論文から消える。
クドウの現在の所在を調べた。最後に所属が確認できるのは、地方の私立大学の生命科学科だ。大学に問い合わせたところ、「クドウ先生は数年前に退職されました。現在の連絡先は把握しておりません」との回答だった。
退職後の足取りが追えない研究者。祖父の死後も動き続けるサーバ。この二つが接続するかどうかは、現時点では分からない。ただ、祖父が一人でこの規模のデータベースを運用していたとは考えにくい。サーバの維持には費用がかかるし、データの更新が続いているということは、誰かが——祖父以外の誰かが——今もシステムに触れている。
もう一点。「Project Nemo」という名称で検索をかけてみた。当然ながら、映画や楽曲のタイトルが大量にヒットする。その中を丹念に掘っていったところ、一件だけ、数年前に海外の研究者向け掲示板で同名のプロジェクトについて質問しているスレッドが見つかった。投稿者は匿名。「Project Nemoに関するデータセットを探しています。水産系のプロジェクトだと聞いています」。返信はゼロだった。スレッドはそのまま沈んでいた。
同名の別プロジェクトかもしれない。だが、「水産系」という補足が目に留まった。
協力者に、残りの列——Harvest、Dest、VW——の分析を依頼した。
返答は数日後に届いた。いつもより文面が短かった。
Harvest列には日付が入っている。「収穫日」と読める。魚の養殖であれば、出荷のために水揚げした日付だろう。だが、前節までの分析を踏まえると、ここでいう「収穫」が何を意味するかは変わってくる。
Dest列にはアルファベット3文字のコードが入っていた。最初は化学物質の略称かと思ったが、元素記号や化合物の略号には該当しなかった。試薬メーカーの型番でもない。組織名の略称も当たったが一致しない。
協力者が試しにIATA(国際航空運送協会)の空港コードと照合したところ、複数のコードが一致した。BKK、MNL、SGN。いずれも東南アジアの主要空港だ。
VW列は「Viability Window」の略だと推測された。直訳すれば「生存可能時間枠」。農作物や水産物の流通でも使わないことはない語だが、この表現が最も頻繁に用いられるのは、移植医療の分野だ。臓器や組織が摘出されてから移植に使用可能な時間的猶予——虚血許容時間——を指す。
そして最後の列、Σ。協力者はこれについて「分からない」と書いた。「他の列はすべて意味が推測できたが、これだけは何を記録しているのか見当がつかない。空欄が多く、まれに入っている値のパターンにも規則性が見えない」。
協力者からのメールの最後の一文はこうだった。「これ以上は、自分の立場では関われない。申し訳ない」
理由は聞かなかった。何に近づいているか、分かったのだと思う。
- BPM(60〜80)、Temp(36〜37℃)、成長曲線の形状——三つが揃った場合、最も整合する解釈は人体組織の培養管理記録である
- Dest列のコードは東南アジアの空港コードと一致し、VW列の語彙は移植医療分野の「虚血許容時間」に対応する
- 祖父の死後(2025年9月)もサーバ上のデータは更新され続けており、共同研究者「クドウ・S」の現在の所在は不明
- 離れの容器の中身
- サーバの管理者と、クドウのプロジェクトへの関与の有無
- 祖父がUSBを遺言に入れた意図(告発か、継承か、それ以外か)
- 祖母は離れに入ることを「お魚がかわいそうだから」と言って避けていたが、投稿者が離れから戻った翌日に「中、見た?」と聞いている
- データの末尾に向かって、VW列の数値が短くなっている——培養環境の劣化を示唆する
- VW列が短くなっているにもかかわらず、Dest列——出荷先——は更新され続けている
これらが何を意味するのかについて、私の見解は書かない。材料は並べた。判断は読んだ方に委ねる。
ハセガワ氏からの最後のメールは、前回から一週間後に届いた。
このメール以降、ハセガワ氏からの返信はない。二度、確認のメールを送った。応答はなかった。
ハセガワ氏のメールを読み返す。
最初の投稿は、困惑の文章だった。何を怖がればいいのか分からない人間の文面だ。祖父がどういう人だったか、水槽の前でしゃがんで魚の名前を教えてくれたこと、そこから書き始めていた。それが回を追うごとに文が短くなり、最後のメールでは補足を数時間後に送り直している。整理がつかないまま、送信ボタンを押している。
祖父は、USBを遺言の封筒に入れた。遺言書本文には一言も触れず、ただ入れた。それを見つけた人間が接続ツールを実行することを、想定していたはずだ。想定して、何も書かなかった。
告発のつもりだったのかもしれない。死後に家族が見つけ、外部に渡す。そう設計したのだとすれば、祖父はハセガワ氏を——あるいは遺品整理をする誰かを——最後の工程に組み込んだことになる。
あるいは、まったく別の意図があったのかもしれない。引き継ぎ。保険。沈黙の中に封じた、どちらとも取れる鍵。
ハセガワ氏は、離れの容器の中を見ていない。濁っていて見えなかった、と書いた。
見なかったのか、見えなかったのか。
その違いが重要になる日が来るかもしれないが、ハセガワ氏に確認する手段は、もうない。
この記事を公開すべきか、しばらく迷った。迷った理由については、書かないでおく。
- 退職した研究者が、養殖・培養技術を個人で継続運用していた事例をご存知の方
- 遺品の中から、用途不明のUSBメモリや外部サーバへのアクセスキーを発見した経験のある方
- 「Project Nemo」または類似するプロジェクト名に心当たりのある方
そのあとで、「中、見た?」と聞いた。
容器の電源は、まだ入っている。
