
CASE-026 / 未解決
投稿者の個人情報は削除・改変しています。資料の真偽については各自でご判断ください。
投稿者はナガタと名乗る40代の女性だ。地方の市立図書館に司書として勤務しているという。
以下、原文をほぼそのまま掲載する。
蔵書が繰り返し消えること自体は、図書館では珍しくない。人気のある本や高額な本は盗まれることがある。しかしこの本は、一般的な知名度がない。古書価格も高くない。盗む動機が見えない。
引っかかったのは、「何回か来た男性」の存在だ。
まず、『ある地点からの観察』という本の素性を確認した。
著者の木嶋恭一は、1991年の刊行時点で50代だったと思われる。奥付の情報は最小限で、発行所は「鶉(うずら)書林」とあるが、出版社として登録された記録は見つからない。ISBNは付与されているが、流通実績はほぼない。国立国会図書館には納本されている。
木嶋恭一という名前で、他の著作、学会発表、大学の紀要、いずれも見つからなかった。個人出版で一冊だけ出して、それ以外の痕跡がない。ペンネームの可能性もあるが、確認する手段がない。
ナガタに、本の内容について聞いた。
国立国会図書館のデータベースで確認したところ、同書は全国の公共図書館に少なくとも11館で所蔵されていた記録がある。ただし、現時点で「在架」となっているのは3館のみだった。残り8館は「除籍」「不明」「確認中」のいずれかだ。
11館のうち、連絡がついた6館に問い合わせた。確認できた内容をまとめる。
A館(関東):2008年に除籍。紛失による。
B館(東海):2011年に除籍。2015年に他館からの譲受で再登録。2019年にふたたび所在不明。現在も「確認中」のまま。
C館(近畿):所蔵記録はあるが、いつからないのか不明。職員の記憶では「ずっと棚にない」。
D館(中国地方):2016年に除籍。担当職員が「何度か同じ本について問い合わせがあった」と記憶している。
E館(九州):現在も在架。書架で現物を確認済み。
F館(関東、ナガタの図書館とは別):2006年、2012年、2020年の3回にわたり紛失と他館からの譲受を繰り返している。
F館の経緯が、ナガタの図書館と酷似していた。
F館の職員に詳しく聞いたところ、一点、気になる情報が出てきた。
返却はされている。本はデータ上、在架になっている。しかし棚にはない。そして最後の利用者が亡くなっている。
偶然かもしれない。ただ、記録しておく。
ナガタの図書館の貸出履歴を、可能な範囲で遡ってもらった。個人情報のため氏名は開示されなかったが、ナガタが台帳上の記録と照合し、確認できた範囲を教えてくれた。
9名のうち、2名は死亡。1名は所在不明。1名は転出。2名は不明。残る3名は、利用者登録が続いている——ただし、それは図書館を使い続けているという事実以上のことを意味しない。
ナガタの図書館で2名。F館で1名。少なくとも3名が、この本を借りた後に不慮の事故で亡くなっている。
もう一点、ナガタの報告で気になったことがある。
同じ男が、2回、窓口に来ている。聞いているのは「この本を借りた人がいるか」。
D館の職員が「何度か問い合わせがあった」と言っていたことを思い出し、改めて詳しく聞いた。
D館とナガタの図書館に現れた男は、年齢層と行動の性質から、同一人物であると考えている。この男が確認できる範囲でやっていることは、二つだ。本の所在を確認すること。借りた人間を探すこと。
ここまでの情報を時系列に並べ直した。
男が問い合わせた記録があるのは、亡くなった2名のところだ。それ以外の利用者について男が動いたかどうかは、記録がない以上わからない。
男が現れた相手が亡くなっている、という事実だけが残る。
もうひとつ。本は繰り返し書架から消えている。返却処理は完了しているのに、棚にはない。誰かが持ち去っている。利用者が返却後に持ち出しているのか、それとも別の誰かが書架から抜いているのか。記録からは判断できない。
ただ、男が複数の図書館を巡って借りた人間を探していたことを思い出すと、ひとつの可能性が浮かぶ。借りた人間を探している人間が、本を消している人間と同じかもしれない。
現物を確認すべきだと考えた。
在架のE館に閲覧を依頼したが、「先週まで書架にあったが、本日確認したところ所在が確認できない」との回答だった。配架ミスの可能性もあるとのことだったが、その後の連絡はない。
国立国会図書館には所蔵がある。来館閲覧を申し込み、翌週、東京へ出向いた。
閲覧室で手に取った現物は、B6判の単行本だった。表紙は灰色の無地で、タイトルと著者名だけが小さく印字されている。装丁に主張がない。棚に並んでいても、まず手に取らないだろう。
300ページを、約4時間で読んだ。
ナガタは「知覚のずれみたいなことがテーマ」と言っていた。読んでみて、その表現では足りないと感じた。
冒頭は、著者が雨の日に陸橋の上から交差点を見下ろしている場面から始まる。傘の列が移動していく様子を、著者は「地面が動いているのか、人が動いているのか、見ているうちに分からなくなった」と書いている。この一文から、300ページにわたって、知覚の曖昧さについての思索が途切れなく続く。
電車の窓に映る自分の顔を、何駅ぶんも見つめ続ける話。夜中に目が覚めて、天井と床の区別がつかなくなる話。階段を下りているのか上っているのか、足裏の感覚だけでは判断できない瞬間がある、という話。
どのエピソードにも結論がない。問いが置かれ、感覚が描写され、そのまま次のエピソードに移行する。章の区切りがない。文章と文章のあいだに見出しも空行もなく、ページをめくるという物理的な動作だけが、唯一の区切りになっている。区切りを見失う。気がつくと50ページ進んでいた箇所がある。
文章は端正で、癖がない。声に出さなくても、頭の中にリズムが生まれる種類の文体だ。そのリズムが心地よくて、止め時がわからない。
組版に気づいたのは、100ページを過ぎたあたりだった。行間が一定ではない。あるページでは行間が広く、次のページでは詰まっている。最初は印刷のムラだと思った。しかし150ページあたりまで読んで、ようやくひとつだけ気づいたことがある。知覚が「揺れる」描写のあるページほど、行間が狭い。目が文字を追う速度が自然と上がり、読むテンポが変わる。意図的にやっているのか、偶然なのかは、判断できなかった。
閲覧室を出て、最寄り駅までの地下通路を歩いているとき、一度だけ、足の裏がどちらを向いているのかわからなくなった。一瞬だ。立ち止まって壁に手をついて、すぐに戻った。本の中に、よく似た描写があった。
帰りの電車の中で、ひとつだけ考えていたことがある。
この本は面白かった。文章が上手い。もう一度読みたい、と思った。
その「もう一度読みたい」が、純粋な読書の感想なのか、それとも本がそう思わせているのか。自分では区別がつかないということに、改札を出てから気づいた。
- 『ある地点からの観察』は全国複数の図書館で所在不明・除籍が繰り返されており、補充してもふたたび消える
- 少なくとも3つの図書館で、本を借りた利用者が不慮の事故で亡くなっている
- 同一人物と思われる中年男性が、複数の図書館で本の所在と貸出者について問い合わせている
- 男が貸出者に実際に接触できたケースがあるかどうか
- 本の内容や組版が人体に影響を及ぼすかどうか
- 本を書架から持ち去っているのが誰なのか
- 男が問い合わせた相手の中に亡くなった人がいる
- 借りた人間を探している人間と、本を消している人間が、同一である可能性がある
- 管理人は通読した
この記事を公開した翌日、ブログの問い合わせフォームに一件のメッセージが届いた。
- 『ある地点からの観察』(木嶋恭一・著、鶉書林、1991年)をお持ちの方、または内容をご存知の方
- 同書を借りた後に、見知らぬ人物から声をかけられた経験のある方
- 著者の木嶋恭一について情報をお持ちの方
この記事を公開したことで、この本の存在を知る人間が増えた。探す人間が増えた。借りる人間が増えるかもしれない。
上の書き込みの人物は「知人に教えてもらった」と書いている。この本を人に教える人間がいる。
私もそのひとりになった。
